介護日記

 

 2002年8月15日 太平洋戦争終結の日に

 「玉音(ぎょくおん)放送」があって、長い戦争が終わってから、満57年です。
 当時私は学徒動員に出ていたのに、この日なぜ家にいたのか記憶が定かではないのですが、町内会から緊急のふれが回ってきて、私の家のラジオの前に、近所のおばさんたち何人かが集まってきました。
 大本営発表などは明瞭に聞き取れるのに、この時の昭和天皇の声は、雑音まじりの途切れ途切れで聞き取りにくかったのです。録音だったせいだと後にわかったのですが。
 15歳になっていた私は不明にも、「ポツダム宣言受諾」という意味がわからなかった記憶があります。ただ、毎日グラマンに追っかけられながらの命がけのトロッコ押しが終わるんだなと、ホッとした記憶があります。
 でも、そこにいた大人たちは、戦争が終わったことがわかったようでした。向かいのおばさんが、「戦死した兵隊さんは無駄死にじゃないの」とぽつんと言って涙を流したのを覚えています。母は何も言いませんでした。兄達がふたり兵役に行っていました。もうひとりの兄は師範学校から援農でどこか遠くに行っていました。住んでいた岐阜市が7月9日深夜、B29の絨毯爆撃で焼き払われ、たくさんの死者がでたばかりで、毎夜顔をあわせて家族の安否確認ができる時代でした。戦後になって明らかになった、この夜の爆撃の規模は、当時米軍最大の爆撃機B29が129機、消失家屋2万戸余り、死者863人でした。私は母と9歳の妹と3人で、南側に拡がる田圃伝いに4キロ離れた木曽川の堤防まで避難しました。紅蓮の炎を上げて岐阜市が燃え上がり、真っ赤な空はB29の機影で覆われていました。
 次の日の夜になって父親が無事帰宅し、「会社がなくなった」と言いました。川西航空機岐阜工場の工場医をしていたのですが、7月の空襲で工場が全焼して、軍需工場としては全く機能していなかったようでした。それにしても、戦争が終わったその日に会社が消えて無くなるという、ショッキングなことは忘れません。父はこの年満60歳になっていたので、以後定職につけないままでした。国民の大半が飢餓状態にあって、医者にかかる余裕などない時代、医師免許状がただの紙切れだった時代があったことを私は知っています。焼け残った家の、母の箪笥の着物を売ってタケノコ生活で飢えをしのいだ何年かでした。

 戦時下の言論弾圧事件で何人も獄死者を出して、雑誌「中央公論」と「改造」が廃刊に追い込まれた「横浜事件」の再審裁判で、検察側が「ポツダム宣言受諾は9月2日のミズーリ号の降伏文書調印で発効」などと主張していると、新聞で読みました。何を言っているのだろうと思います。そんな形式的な法律論議を、戦後57年経ったいま、日本の検察がしているのは奇怪です。ドイツは徹底した戦争犯罪の告発と犠牲者への補償を国家として続けています、同じ戦時下枢軸側の国として、どうしてこんな差が出てきたのでしょう。
 あの「玉音放送」を体験して、一夜にして全てが変わったことを体験している身にとって、こんな検察側の主張は、事実に反します。

 和子と一緒に生活を始めて38年、この季節にはずっと「戦争と平和」の話をしてきました。私より6歳若く、米軍機も来なかった東北の田舎育ちの和子は、でもこんな話を随分わかってくれました。特攻基地があった知覧に行くことも、沖縄戦跡巡りも彼女が言い始めたことです。
 7年前に訪ねた沖縄の「平和の碑(いしじ)」の、朝鮮・韓国人、台湾人の戦死者の碑が、ほとんど空白のままだったことが忘れられません。日本人として召集・徴用して戦争に参加させ、戦後は外国人として個人補償にはほとんど応じてこなかったこの国の、国民の一人でいることが私は恥ずかしいです。

 「1年に一度でもいいから、この8月のことを忘れないでいよう」という暗黙の同意が私たちの間にはありました。和子は、「それを忘れたら人間としての価値を問われる」とでもいうように思っていたフシがあります。でもその和子と、会話らしいものができなくなって、もう何年にもなります。

 毎日一緒に歩いて、出かけて人と会い、楽しい時間を過ごすのに言葉はそんなに必要ではありません。彼女の何かのサインをこちらが見逃さないようにすることで、意志の疎通に不自由は殆ど感じません。私たちには共通語の音楽があるし。
 言語野があると言われる大脳皮質や海馬は、もう崩壊状態が進み、それでも単発的に言葉が戻ってきているし、こちらの短い言葉も通じます。「はい、立ちましょう」と言って手を添えてやれば、「はい」と言って、自分で立ち上がります。こちらが笑うと、「なにさ」と言って反応するのは、スタッフたちも経験しています。
 「音楽もアルツハイマー病に侵されにくい脳の部分に記憶されているとみられる」とナショナル ジオグラフィック日本版の『脳』特集が書いたのは、1995年6月号です。それから7年余り経つけれど、解明が進んだという情報は聞きません。

 雨続きだったこの地にも、やっと青空が戻ってきました。でも大陸の冷たい高気圧で、もう暑い日は無いだろうという予報です。空も雲も秋の色だし、風はもう秋風の気配です。この夏札幌の真夏日はたった2日、小樽は多分真夏日は無かったのではないかと思います。世界のあちこちで起きている大雨・洪水のニュースで、地球温暖化の影響だと報じられています。しばらく言われなかったエルニーニョ発生のニュースもあるし、私はやはり地球の今後の運命が気がかりです。

 教師生活最後の年の授業で、理科Iという授業枠の中で、「地球」を取りあげました。退職したあとで作った『北海道でとりくんだこと』という100ページほどの小冊子に、この授業のレポートを載せました。

 実践記録:「地球があぶない〜高校理科で地球と人類の未来を考える」

というレポートです。理科教師最後の年のこの授業は1987年だったから、15年前のことです。知床100平方メートル運動や、南極上空のオゾン層の減少や、千歳川放水路や、日高横断道路や、チェルノブイリ事故や、いろいろなことがありました。そんなことも取りあげて、同僚の地学の教師と組んで半年間やった特設授業でした。後に発表する機会があって、私がレポートにまとめました。
 私が思いついて付けた「地球があぶない」というタイトルは、15年後の現在、残念なことに現実のことになりつつあります。

 和子は元気で、にこやかに毎日を過ごしているけれど、数年前の脳のCT写真を見た医師たちが、「寝たきりになっていても不思議ではない」という、その脳の萎縮した部分が再生をしているわけではありません。でも毎日和子と数時間一緒に過ごして、私はいつも「46億年前に生まれた地球という奇蹟の天体で、7億年前に生まれた生命の果てに、和子も私も生きている」という事実を考えています。和子と私が生きていることが、「その歴史の一部になり得る」と言ったらいいでしょうか。そんなことを考えながら毎日を生きています。
 次便で、もっと具体的な『介護日記』を書くつもりです。

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