'99年8月15日

私たちの”戦争と平和 ” 太平洋戦争終結の日

 

 和子の妹が和子を訪ねて来てくれました。宮城の実家で音楽を教えながら92歳の母を看ています。
 ホームで歌が好きな入所者の人達とミニ音楽会を開いたあと、家に来て妹のピアノ伴奏でいっぱい歌いました。 この日一日で何十曲も歌いました。
 曲名を言うとメロディーが正確に出てきて、それにつれて歌詞も出てきます。『花』(春のうららの・・)や『夏は来ぬ』や日本の歌は歌詞も全部出てきます。彼女が記憶を失ってからもう十年以上です。自分の名前も、故郷のことも、肉親の名もほとんど覚えてないのですが。

 1949年夏の三大事件といわれる「下山・三鷹・松川事件」から満50年経ちます。普通こういう話題は若い二人の間の話のテーマにはならないのかも知れないけれど、私たちの間では音楽の話と同じように大切なことでした。1949年夏といえば、私は19歳で和子は12歳です。7年後輩の彼女に、私にとって忘れられない戦後史の一部分を一所懸命に話していたのかも知れません。

 1949年の夏は私は高校3年生でした。その年の3月に旧制工業学校を卒業して卒業証書も貰いましたが、当時すでに発足していた新制工業高校2年終了でもあり、もう1年通えば高校卒業の資格も取れるという過渡期でした。13歳から19歳まで6年間おなじ学校に通い、翌年卒業して岐阜電話局に技術員(通称電工)として就職しました。その年(1949年)は学校生活最後の年だったし、就職した年の6月朝鮮戦争が始まってもいるので、そのあたりの記憶は鮮明です。

 『少年H』を読んで私が彼と同じ歳だとわかりました。昭和18年の旧制中学校の選抜試験は体力検定だけでした。「聖戦を勝ち抜くのに必要なのは体力だけ」という制度は1年だけで廃止になったのですが、H少年はその体力検定に合格し、栄養不良の少年だった私は不合格で1年遅れました。鉄棒と跳び箱と100メートル徒競走だけでした。でも私は、いい寄り道経験をしたと以後ずっと思っています。

 彼女と出会ってから、そして子ども達が物心ついてからは、子ども達も含めて夏は「戦争と平和」のことを考えて来ました。最初子ども達を連れて冬休みに行った広島と長崎を、何年かあと夏に再訪したのも、真夏でなければヒロシマとナガサキは判らないと思ったからでした。 

 和子の病気が判ってからも、この一年に一度だけの「思いを新たにする夏」は続けて来たけれど、彼女がシリアスなテレビ番組を見続ける事が出来なくなったのは去年からだったかと思います。吉永小百合の朗読のCD『第二楽章』を買ったのですが、彼女は耳を覆ったので聞くのをやめました。

“沖縄戦”満50年の夏(1995年)、「平和の碑(いしじ)」が完成しました。テレビでその特集番組を見ていたら「ねえ、行こう」と彼女が言いました。
 11月姪の結婚式で東京に行ったその足で沖縄に飛び、路線バスを乗り継いで一日かけて南部戦跡を回りました。

 その帰り鹿児島に飛び、知覧の特攻平和会館を再訪しました。そのあと列車で広島に行き、その前年に改築された平和記念資料館を訪問しました。私は4度目、和子は2度目です。

 平和公園と川を隔てて、ひっそりと建つ『ヒロシマの碑』にも行きました。元安川の河原から地元の高校生たちが集めた、原爆瓦をはめ込んで作った碑です。札幌西高最後の教え子たちが、見学旅行の自由見学の日、京都から訪ねて行った碑です。

”天が まっかに 燃えたとき

  わたしの からだは とかされた

   ヒロシマの 叫びを ともに

      世界の人よ”

と書いてあります。

 行くたびに「ひろしま美術館」に寄ります。印象派からエコール・ド・パリまで、好きな絵がたくさんあります。

 札幌で『シンドラーのリスト』を見て、彼女が暗がりで涙を流していたのは同じ年だったと思います。

  昭和5年生まれと11年生まれの戦争体験はずいぶん違います。私が住んでいた岐阜市も、学校があった大垣市も空襲で焼かれ、たくさん死者が出ました(岐阜市で863人、、大垣市で79人)。
 私が学徒動員で土木工事に行っていた東海道本線の工事現場で、グラマンの機銃掃射に遭い、目の前で一緒に働いていた兵士が死にました。戦後の食糧難の時代、工業学校の親友が結核で死にました。結核で家族全滅という学友もいます。
 私は15歳で戦争には行かなかったけれど、“銃後”の守りでも命がけでした。「辛くも生き延びてきた」という実感があります。

 童謡の『赤とんぼ』の3番の歌詞「十五でねえやは 嫁に行き・・」というのを、「銃後でねえやは 嫁に行き・・」と戦後まで思い込んでいました。
 軍国少年の思い違いだったのですが、向田邦子の『眠る盃』と比べて苦い記憶です。(向田邦子のは、『荒城の月』の歌詞の「巡る盃・・」を「眠る盃・・」と思い違いしていたというエピソードです)。

 彼女は東北の田舎町の育ちで、空襲警報の経験もほとんどなく、米軍機の姿も見たことが無いといいます。でも戦中・戦後の思いを共有できることが、私たちの共同生活の条件のひとつだったとも思えます。

 彼女と会話ができなくなったことが確かになったこの夏、こんなことを考えました。和子は62歳です。

 作家の辻邦生が7月29日 心筋梗塞で亡くなりました。私は好きな作家でしたが、和子は読んでいない筈です。和子の病気がはっきりした頃、東京の図書館で借りて何冊も読みました。
 彼の作品の世界が、私の不安な毎日を支えてくれました。和子の感性に合う作家なのになあと思った記憶があります。「ひとりで読むしかない、感想を話す相手がいない」ということは、30年以上も学校図書館で、生徒に作品との出合いと読書への思いを語ってきた私にとっては、とても切ない気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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