〈ケアの手探りの日々・その2 '93.1〜〉

— 1月 —

 年が明けて'93年1月、名古屋の姉の夫の17回忌に行くことになり、5日前からフルムーン・パスで九州に出かける。吉野ケ里・有田・伊万里と歩き、最後に私達の念願だった知覧の特攻平和会館に行くため鹿児島に向かう。鹿児島から知覧への道も遠く、帰りのバスの便に乗るために一時間程しか居られない。しかし、九州の各地の特攻基地から飛び立って還らなかった、1000人を越える若人たちの遺影と遺品を前に胸がふさがる思いがする。

 その夜、鹿児島の宿で彼女は、実家の妹に絵ハガキを書いた。「50年前に、日本はこんな無謀な戦争で、たくさんの若い人達の命を散らせたのですね」と。記憶ができなくても、彼女の感性が全くまともなことを知ってうれしい。この時の写真も、すぐにアルバムにして何度も見る。夕暮れの吉野ヶ里遺跡の写真は、彼女の記憶にしっかりと残った。特攻平和会館の前では、写真を撮る気持ちにならず何も残っていないが、彼女はやはり覚えている様だ。

 旅行に出ると、経費を安くするために、共済の宿に泊まることが多い。バス・トイレ付きの部屋はほとんどないので、トイレも風呂も連れて行って前で待っていなければならない。待つのはかまわないが、鹿児島の共済の宿では女性風呂のフロアが男性とは別で、その前で待つのもはばかれて苦労した。旅が大好きな彼女を見るのはうれしいけれど、夫婦ふたりだけの旅もいろいろ大変。

 夏樹静子の『白愁のとき』が出版されて、そのインタビュー記事が新聞の読書欄に載る。初老期のアルツハイマー病を患者自身の側から書いた作品ということで、買ってすぐ読む。働き盛りの造園家の、自身が記憶を失ってゆくことへの恐怖が生々しく描かれている。作者は神経内科の第一線の学者や医師から克明に取材したという。「彼女にもこんな恐怖があるのかなぁ」と考えるがわからない。しかし、夫の私がやれる唯一のことは、その不安をなくすことだと思い定める。

 同じ頃、TBSの報道特集で、やはり初老期のアルツハイマー病の女性患者のドキュメントを見る(これは、たまたま新聞のテレビ欄で見つけ、録画して夜中にひそかに見た)。この札幌医大精神科の患者は、短い期間(数ケ月)に病気が急速に進行している。そして、そこのドクターが、「初老期の場合、うちでは患者さん本人のために、告知することにしています」と言いきっているのが気にかかる。

 2週間に1度行く病院では、毎回同じ検査をされる。簡単に内診をした後、「今日は何月何日ですか」、「総理大臣は誰ですか」、「ここは何という病院ですか」。岩波新書から出た黒田洋一著『ボケの原因を探る』を読んで、この問答が『長谷川式簡易知能評価スケール』というのだとわかる。「今日は何月何日ですか」から以下11項目のテストがあり、31.0点以上が正常、30.5〜22.0点境界〜軽度異常、21.5〜10.5点中等度異常、10.0点以下高度異常で、彼女は初回検査時21.0点で「中期症状」という診断根拠のひとつになっている。   

— 2月 —

 2月を過ぎた頃、彼女は病院へ行くのをいやがり始める。「私どこも悪くないのにどうして病院へ行くの?」と涙をいっぱいためて言う。毎回の問答を覚えてはいないだろうけれど、ストレスにはなっていたんだろうと思う。「薬も気休め程度」と言われていたし、病院へ行くのをやめる。

 その頃、彼女の発病以来ずっと心配してくれていた教え子Y(西高28期の女性で、在学中からわが家に出入りしていて、10数年の家族ぐるみの付き合いがあった)からの連絡で、同期のFが上智社会福祉専門学校の教師をしていて、その方面に詳しいから会いに行ってみるといいと言われる。「私の病院に行って来る。検査があるから少し時間がかかるけど」と言って、和子をひとりおいて、大急ぎで上智のキャンパスに出かける。

 Fが3年の時物理を教えたことがあり、15年ぶりの再会だった。彼女は日本女子大で社会福祉を学び、今はその道の専門家として活躍している。私の話をゆっくり聞いてくれた彼女が、「先生、多摩地域でいちばんいい病院を紹介します。私のところの学生も毎年実習に行かせています」と言って紹介してくれたのが、多摩市の天本病院だった。何日かして、又和子をひとりおいて、姉とふたりで天本病院へ行く。紹介されたメディカル・ソーシャル・ワーカーに会い、1時間余り話を聞いてもらう。「ケアをなさるのは御家族です。65歳までは自治体や地域のケア・サービスを原則として受けられませんので、御家族でやって頂くしかありません。今は治療法はありませんが、病気が進行するかしないかはケア次第だとも思って下さい。ここの病院はそのケアのお手伝いをしますから、いつでもいらして下さい」と言われる。

 「どんどん進行します。覚悟して下さい」と言って、行く度に「今日は何月何日ですか」と問う専門医師と、「病気の進行はケア次第だとも考えて下さい。いつでもケアのお手伝いをします」というソーシャル・ワーカー。この違いに驚くが、正直救われた思いがする。できるだけ早く転院させようと心に決める。

— 3月 —

 3月末新聞で“ロンドン・パリ・ホテル付きフリー10日間13万円”という広告を見つけ、この料金の最終期限日(翌日から値上がりする)の4月19日に出かけることに決める。4年前私が教師を辞めた年、息子と3人でスイスを一週間フリー旅行(宿を現地で探して)をして以来の2度目の海外旅行。私の持病の狭心症のこともあり不安もあるが、「和子がまともなうちにどこへでも行こう」と思い、行くことにする。画集やテレビの美術番組を見て、「ナショナル・ギャラリーに行かなくちゃ」、「オルセーに行かなくちゃ」と口ぐせの様に言っていたのは彼女だった。ロンドン・パリ各4泊。朝食つき。それぞれ1日目に半日観光がついていて、あとは全くフリー。

 ロンドンでは公園を歩きまわったり、寝そべったり、彼女は絵の先生からの宿題の写生もした。ナショナル・ギャラリーに1日半、テイト・ギャラリーにターナー・コレクションを見に半日、夜は20年以上続いているというミュージカルの「キャッツ」をみて、テームズ観光のクルーズにも乗った。ナショナル・ギャラリーで彼女を見失ってキモを冷やし、以後外を歩く時は手を離したことはない。

 パリに飛んで、翌日からフリー。ホテルのそばから地下鉄に乗って、最初の目的地オペラ座に向かう。今ここで、オペラはやっていないが、1875年にできた建築と天井のシャガールの絵を見るために。

 ここで劇的な出会いがあった。入口で入場料のコインを数えていると、耳もとで「失礼ですが後藤先生ではありませんか」。思わぬ所で教え子に会い、和子はいつも「WANTEDだ」と言って笑っていたが、まさか、「INTERNATIONAL WANTED」とは。彼は20年前札幌西高を卒業し(私のクラスだった)北見工大に入学したが、2年生の時にトラバーユしてJALのパイロットになったと聞いていた。高卒以来会っていないので満20年目の再会である。国際線も飛んでいると聞いていたので「仕事?」と聞くと、「今夜の成田便を運行して帰ります」と。双方時間があるので、オペラ座の前のレストラン(日本人観光客で有名なのだそうだ)でサンドウイッチとコーヒーを御馳走になり、思い出話に花が咲く。

 国際線を運行して現地(今はロンドン、パリ、ニューヨークだという)で3日ぐらい居るという彼に、現地で何をしているのかと聞くと、ひたすら音楽会三昧だという。「娘(音大を出て音楽を教えている)と3人で、メトロポリタン・オペラを見に行きたいねと話している」と言うと、「僕、毎月ニューヨークへ行きますからチケットを買ってきてあげますよ」と言う(これが半年後に実現し、私達と娘と3人、オペラとミュージカルに、それに彼が運行を合わせてくれて3日間ニューヨークを案内してくれるという何とも好運としか言い様のないことになった)。

 準備でホテルへ帰るという彼と別れて、私達はオランジェリー美術館へ行く。ルノアールの『ピアノのお稽古』の前で、「ここにあったんだ」と彼女は動かなくなる。聞けば子どもの頃、少女雑誌の表紙の写真で初めて出会ったのだという。うちにはルノアールの画集もあるけれど、これはのってない。ほぼ50年ぶりの対面ということか。ルノアールには、同じモチーフの絵が何枚かある様だから、これがそうなのかどうかはわからないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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