介護日記

 

 2009年12月20日 「12月8日」のこと

 和子はいまショートステイで入院中です。12月8日のことは意識していたのだけれど、パソコンの不調や和子の世話で、遅くなりました。
 「12月8日」のことは、新聞やテレビも少し触れただけで一過性のニュースで終わった感じです。どこかの放送局で、街を歩く若い男女に、「今日は何の日ですか?」という街頭インタビューに答えられた人はほとんどいませんでした。今の政局が、「沖縄基地問題」や「事業仕分け」で混乱しているので、余計そうだったのでしょう。

 1941年(昭和16年)12月8日は日米開戦の日です。外交電報のトラブルで日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊の基地に壊滅的損害を与えたそのあとに、宣戦布告が届いたということで、「リメンバー・パールハーバー」という思いは、今でもアメリカ人の中に(若い人も含めて)浸透しているのに、日本人はほとんど忘れているし、若い人は教えられてないようです。「昭和は遠くなりにけり」という感が強く残りました。

 私は平均的な軍国少年だったと思うけれど、小学校に入学した1937年に廬溝橋事件で日中戦争は始まっていて、近所の顔見知りの若い青年たちが日の丸の小旗に送られて出征し、そして短い人は数ヶ月で遺骨になって戻ってきました。出征は一人ずつだったけれど、慰霊祭は学校の校庭にテントを張ってまとめてでした。家の向かいで、結婚したばかりで、若い妻と幼い女の子が残されたました。その女の子の顔は今も忘れません。戦争は身近だったのです。

 そんな時に米英という大国を相手に戦争が始まったことを、「大変なことになった」と子ども心に思いました。私は小学校(国民学校と言われていました)の5年生で、あさ学校に行くために支度をしていました。すでに中国などを相手の長い戦争が始まっていましたから、NHKのラジオはつけっぱなしでした。
 突然それまでの放送が中断し、「臨時ニュースです」とアナウンサーが言った後、軍人特有のかん高い声で、『帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり』という放送が続きました。学校に行っても、クラスの雰囲気がいつもと違いました。数年経ったら徴兵検査、その前に15歳ぐらいから少年兵という制度もあり、「何年もしないうちに我々も出征・戦死という運命が待っている」という思いもあったのでしょう。

 翌日だったか、「米英両国に対する宣戦の詔書」というのが出されました。「詔書」とか「詔勅」というのは、天皇の名で出されるものです。校門を入った所に、50センチほどの石垣の上に、「奉安殿」というコンクリート製の畳半畳ほどの建物があり、頑丈な鉄の扉と大きな錠前が付いていました。その中には天皇皇后の写真(御真影)と、勅語・詔書・詔勅の類が巻物として収められていました。前にも書いたと思うけれど、遅刻しそうになって、「奉安殿」に最敬礼をするのを忘れて、監視していた教師に、したたか鉄拳を浴びたことがあります。

「米英両国に対する宣戦の詔書」
 天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆(なんじゆうしゅう)に示す。朕茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海軍将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ。 (後略:括弧内は私がつけた読み仮名です)

 この奇襲攻撃でハワイの米軍太平洋艦隊を全滅しました。旗艦アリゾナは今も博物館として残されています。
 それから1年足らずの1942年6月のミッドウェー海戦で、日本海軍は主力航空母艦4隻を初め多数の航空機を失い、戦局は逆転しました。でもそのことを国民が知ったのは1945年、終戦後のことです。勝ったことは発表し、負けたことは知らせないというのが、戦争を取り仕切っていた大本営の方針だったようです。

 太平洋戦争は4年後の1945年に日本の無条件降伏で終わりましたが、日本がアジアの諸国に侵略を始めてからのことを15年戦争とも、アジア太平洋戦争とも言います。その間の犠牲者の数は、民間も含めて日本側が300万人、東南アジアを植民地にしていたイギリスやオランダも含めて、相手方が2000万人と言われています。

 日本が三国同盟を結んでいたイタリアとドイツ。イタリアは1945年4月28日、ムッソリーニが逮捕銃殺。ヒトラーが同じ年の4月末自殺、ドイツ軍は5月7日連合国軍に無条件降伏しました。
 ちなみにヨーロッパ戦線も含めて第2次大戦の犠牲者数を調べてみました。もちろん正確な数はわからないのですが、大戦に参加した米・英・仏・伊の各国が数十万人、ドイツが500万人、中国が1000万人、旧ソ連邦が2000万人です。 ヒトラーが計画的にアウシュヴィッツなどの殺人工場を作って特別列車で送り込んで殺したユダヤ人の数は600万人と言われているけれど、これは上に書いた統計とは別なのでしょう。

 15年戦争の途中に物心がついて、戦後64年を自分で体験しながら本を読み、アジアやヨーロッパで行われてきたことも知りました。旧ソ連邦の戦争の犠牲者数が2000万人というのも、息を呑む数字です。スターリングラード(現ボルゴグラード)攻防戦の映画も見たことがあるけれど、本当に「戦争の世紀:殺戮の世紀」だったことを改めて思います。

 書きたいことはいっぱいあるけれど、最後に地球温暖化のこと。コペンハーゲンで開かれていたCOP15(国連気候変動枠組み条約締約国会議)の採択が出来ず、決裂を回避して合意文書を承認して閉幕しました。採択と合意にそれほどの違いがあるとも思えないけれど、先進国の二酸化炭素削減と、途上国のそれとは中身が違って、いうなれば「今度は我々が排出をしてでも経済発展をする権利がある」という国が、中国、インドなど人口大国です。逆にキリバスのように国そのものが水没する危機にあると大統領が訴えていたのが強く印象に残りました。

 私は来年80歳になります。地球温暖化の危機は次の世代、50年か100年先は危ないなあと思っていたのですが、現在起きている異常気象はそれどころではない、数十年のうちに、地球が住むに耐えなくなるという怖れを感じています。

 ホームページのメニューの中に、『北海道でとりくんだこと』というページがあり、『地球があぶない』という授業の実践記録があります。1987年、今から18年前の、教員最後の年の記録です。「今にして思えば・・・」という感を深くしています。

 和子を連れて散歩する日が夏から秋にかけて殆どありませんでした。寒い夏に続いて小春日和のない秋、そしていきなり寒波がやってきて日本海沿岸や北海道の大雪。ただごとではないと実感しています。

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