介護日記

 

 2009年11月3日 憲法公布63年

 10月末、札幌西高の同窓会懇親会がありました。授業を2年間教えた学年が当番期で、なつかしい教え子たちとたくさん出会えました。
 同じ日の昼間、私と和子の共通の友人だった人の「偲ぶ会」に出ました。私より3歳若く、障害をかかえていたのですが、肺ガンであっという間のことだったようです。
 ちょうど和子がショートステイで入院中だったので、両方に参加できました。

 この秋は天候不順で、小春日和らしい日が続かず、地下鉄を利用しての車椅子散歩も、鴨鴨川べりと、豊平公園だけで終わりそうです。いつも付き合って下さる知人が待機していてくださるのですが。

 和子はショートステイを終え、先週初め退院しました。しょっちゅう痰がからむので、また私の寝不足が始まりました。でも元気です。
 昨日まで何日間か氷点下だった札幌が、今日から十数度の気温になりました。12月の気温から急に10月の気温になるので、「地球がおかしくなった」と実感します。

 暖かくなったので、今日は、お友達と一緒に、歩いて行ける道立近代美術館にルオーの展覧会を見にいきました。敬虔なカトリック教徒だったというルオーのキリスト像も何点かありました。東京の出光美術館からの出展が多く、私たちが東京に住んだ2年間に何度も行っているので、懐かしい絵もたくさんありました。
 和子は目が見えないのに、入場する前に比べて、出てきた時は穏やかな、いい顔になります。美術館の雰囲気や、絵の具の匂いを感じるのでしょう。

 終戦の翌年(1946年)11月3日、連合国軍占領下で、さまざまな困難を経て新しい憲法が公布されました。そして半年後の1947年5月3日に施行、第一回の憲法記念日になりました。
 大戦が終わって2年、16歳で私はこの日を迎えました。旧制工業学校3年生でした。戦争中は平均的な軍国少年だった私も、日本はこの新しい憲法の下で、平和な国になっていくのだという感慨がありました。
 何度も書いたけれども、住んでいた岐阜市と、学校があった大垣市は空襲で焼き払われ、何百人もの人が焼け死にました。動員先では米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射に追いかけられ、一緒にトロッコ押しをしていた兵士が目の前で射殺されました。学校に通う通りのお店屋さんの初老のおじさんでした。私が住んでいた岐阜市の、近所の知っている人が出征しては遺骨で帰ってくる。そんな戦争末期でした。

 食料の流通ルートはずたずたで、まともな食い物もなく・・・、そんな生活の中で1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞きました。「ああ、戦争が終わったんだ」とは思ったけれど、明日からの生活がどうなるか全く想像もつかず、飢えと窮乏の2年間を生きてきた時の新憲法でした。
 軍国主義教育の中で教育勅語をいやというほど暗記させられました。どうしてか、私の学校では軍人勅諭まで暗記させられました。そして8月15日の終戦の詔書です。天皇の変わった抑揚の「玉音放送」が不思議でした。それまでは天皇は神様でしたから。

 教育基本法は憲法記念日前の1947年3月31日に公布、施行されました。後に学校の教員の職を得てから、憲法と教育基本法が、教員として生きていくための指標になりました。

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 教育基本法
 第1条(教育の目的)
  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。 *****************************************************

 憲法記念日の今日、教員としての仕事は20年も前に終わったけれど、改めて憲法と教育基本法に目を通しています。

 ふと、昔見た映画『フィラデルフィア』を思い出しました。フィラデルフィアの大きな法律事務所で、中堅の弁護士(トム・ハンクス)がエイズを発症し、隠して仕事をしていたのが、遂に額に紫色の青いあざができ、事務所を解雇される。公判の書類を隠され、コンピューターの記録も消され、それを口実にしての解雇です。エイズの彼をクビにする為の陰謀だったわけです。
 1993年の映画だから、まだ十数年前のことです。今でこそ、握手をしたり抱き合ったりしても伝染などしないというのが、ある程度は常識になっているけれど、その頃はまだそんな常識が通用していなかったようです。
 黒人の敏腕弁護士が一人で弁護を引き受け、事務所側は強力な弁護団を結成して、結果はは480万ドルもの懲罰的賠償金を払わされる。その頃、原告の当人は死の床にある、というエンディングでした。たしか、実話に基づいた映画だったと思います。
 
 十数年前のアメリカ社会は、まだこういう因習・差別のなかにあったこと。そして陪審員制度があって、こんな画期的な判決が得られたのだという感想を持ちました。

 連想のように、和子の病気の経過を思い出しました。病気が判った時、若年性アルツハイマー病などという言葉は私も含めて誰も知らなかったし、介護・福祉の現場でもそうでした。当時は介護保険も無く、親身になってくれた、在宅介護支援センターのソーシャルワーカーの助けを借りて、何とか小樽の数年間を生きてきました。病気の初期から、たくさんの教え子達の励ましやサポートを受けてきました。

 悔し涙を流して、「和子は十数年早く生まれてきてしまった」と思ったことも再々ありました。でも北海道放送(HBC)という民放局が、3年にわたって6本の短いドキュメンタリー特集番組を作ってくれて、この近所を歩くと、「お元気そうですね。テレビ見てますよ」と、声をかけられたこともありました。

 差別は歴史的な時間をかけて、無くなっていくことを実感しました。でも、和子の肉親からは、断絶状態のままです。血がつながっているだけ、根は深いというのも実感です。

 オバマ大統領が、アメリカの原子力発電所の建設にゴーサインを出したというニュースが流れています。アメリカは1979年にスリーマイル島原発で炉心溶融という大事故を起こして以来、原発を稼働していないから、実に満30年たって自らタブーを解いたことになります。地球温暖化・クリーンエネルギーがらみの政策変更だけれど、早速50を超える電力会社が名乗りをあげているといいます。

 ただ、風力・水力・太陽光発電などと違って原発は、「トイレのないマンション」と当初言われた状況と変わらず、使用済み核燃料の処理が決まらないままで、日本はそれぞれの原発の構内と青森県六ヶ所村に堆積させています。
 世界中の原発稼働国も似た状況でしょう。たしか、アメリカは、あの広大な国土の人里離れた場所に候補地を決めたとニュースで仄聞したような記憶があります。でも広ければ大丈夫などいうことが証明されているわけではなく、数十年、いや数百年後まで使用済み核燃料の放射能が地中に漏れないという保証などありません。

 1986年のチェルノブイリ原発事故は、事故後コンクリートで封印したままで、ロシア政府が積極的な事後処理計画を持っているというニュースもなく、イラン・パキスタン・北朝鮮など、事情が隠蔽されたまま判らない国もあります。
 日本で稼働中の原発も事故続きで、それでも東京電力が殆どの原発を止めたまま夏の需要の多い時期を乗り切ったことがあったと思います。
 私が物理学徒の端くれとして思うのは、人類が「原子力の平和利用」というパンドラの箱を開けた時から、終わりのない闘いに突入してしまったということです。

 ヒロシマ・ナガサキの被爆者の闘いはまだ続いています。あれから64年、被爆3世もいます。死者2名を出した東海村JCO事故から満10年、近隣住民にいつ放射線が原因の障害が起きるか、全く未知数です。

 ちなみに国際原子力事象評価尺度では、スリーマイル島事故がレベル5、膨大な死の灰がウクライナの平原に飛び散ったチェルノブイリ事故がレベル7(最高値です)、ほとんど忘れられかけている東海村JCO事故でさえレベル4です。孫や子の時代にどんな健康被害が出てくるかわからないのです。
 絶対に事故が起きないように設計され、定期点検も入念にやられている筈の日本の原発事故が多いこと。

 原発の事故は、暴走が始まったら、止める手段がないということです。アメリカがスリーマイル事故以来満30年間、稼働中だった原発も廃止していたのに、50社もの電力会社が建設を始めるというのは怖ろしいニュースです。チャイナシンドロームという言葉が、スリーマイル事故の時言われました。炉心が溶融して、そのまま地球の中心を通って反対側の中国まで到達するという、実際にはあり得ない言葉がはやったということが、、その時の世界中の、特にアメリカの人達の恐怖を物語っています。

 パソコンの調子が不具合で、2ヶ月も空けてしまいました。毎月1回は書くつもりでいます。

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