'99年2月20日

 

 春のような暖かい日が2日ばかり続いたと思ったら、又、真冬に逆戻りで、昨日は40cmも雪が降りました。降雪量も6mを超え、しかも低温続きで融けるヒマがなく、そのまま降り積もって周りは雪の山です。

 それでも日差しは暖かくなり、春が近いと肌で感じます。近くの生協で「三重のなばな(菜花)」を買いました。いつもこの時期店に出る「なばな」の、少しほろ苦い味は春の香りです。ハウス物が多くて、この頃季節感のなくなった野菜が多いのですが、「なばな」だけはいつもこの季節です。テレビのニュースで、高知の満開の菜の花畠を見ました。

 デイ・サービスを利用して二冬目ですから、その前の冬の今頃(2年前)、和子と手をつないで近所の雪の道を「菜の花ばたけに入り日薄れ〜」や、「春は名のみの風の寒さや〜」を歌いながら歩いたのを思い出します。日が長くなったので、暖かい日ならデイ・サービスから帰ったあと、少し散歩ができるかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インフルエンザが特養ホームではやって、入所者だけでなくスタッフもやられ、週末ショート・ステイの利用の制限もあって、私も体力的にピンチのこともありましたが、何とか下火になったようで乗り切りました。和子は予防ワクチンを接種しましたが、私は品切れで打てませんでした。厚生省がいくら「ワクチンの接種を!」と呼びかけても、無いものはどう仕様もありません。「絵に描いた餅とはこの事か」とつくづく思いました。それでも和子が利用している特養ホームでそれが原因で亡くなった方もなく、全体として終息の方向に向かっているようでホッとしています。

 病気がわかってからずっと彼女のそばにいたので、折にふれてわかる変化もそんなにショックにならないできたのですが、「会話」らしいものが全く通じなくなった彼女を7年前と比べてみて、「ずいぶん進行した」というのが実感です。3年前に撮ったMRIを見た何人かの教え子の医師たちが、「この時点で入院相当と、医者なら判断してもおかしくない」と言うのだから、当然なのかも知れません。でも、そのあとも私たちは何度か国内旅行をしています。東京の心理療法士の教え子E夫妻とスペイン旅行をしたのもそのあとでした。

 毎日午後4時にデイ・サービスから帰って、9時にベッドにつくまで(眠るのは早い日で10時半、遅ければ午前3時)、しきりにいろいろ話す彼女の言葉の大半は意味不明です。トイレの壁にかけてあるカレンダーを見て、「8、13、27、赤、赤」などと言います。数字はまだ読めるし、色もわかるけれど、カレンダーという認識はもうないようです。
 私が夕食の仕度に立つと、すぐついてきて、「私どこに行ったらいい?」「私何をしたらいい?」とひっきりなしです。手も出すのであぶなくて包丁も使えません。そんなある日、夕食後しばらくして、「ねえ、私この頃何もできなくなったんじゃないの?」と聞きます。返す言葉もなくて、何か言って話を変えたのだけど、こんな「文章」になっていることを話したのは1年半ぶりだなあ、と思い出しています(
レポート'97.11.8「私疲れてもうできないと生徒に言わなくちゃ」)。「病識が戻るのだから、まだそんなに重症じゃない」と私自身に言い聞かせてみたりして、少し複雑でもあります。

 そんなことで、昼間、夕食の下ごしらえをして、彼女が帰ってから30分ぐらい手を加えることも無理になって、今はほとんど仕度を終えて、10分ぐらいで(温める程度で)食卓に並べます。彼女はもう“手(目だけではなく)を離せない”状態なので。

 食卓で、右手の箸は元通り使えますが、左手も素手でお皿のものを取って食べ、そして「おいしい」と目を細め、幼児の如くです。でも、左手を清潔にしておけばいいのだと思っています。「素手を使ってはいけない」というのは、こちら側の理屈だから。“酢がき”の小鉢を2つテーブルに運んでもらうと、1つを置いて1つを持って戻り、途中歩きながら手を使って口に入れて「おいしい」と言ったりもします。楽しくもあるけれど、手も目も離せないので、食事は少し修羅場で緊張します。

 朝食は、サラダや目玉焼きを作るのも無理になったので、パンとジュースと牛乳とストレートの紅茶(私たちは砂糖を入れません)だけです。パンはホーム・ベーカリーで焼くようになって十数年たちます。くるみを入れたりして、ずっと自家製です。少し朝食の栄養が片寄るかなあと思うけれど、ロンドン・パリの旅行の時のホテルのコンチネンタル・ブレックファーストもこんなものだったし、私たちのような世代にはこれでもぜいたくです。夕食は麦御飯に一汁五菜はとっているし、煮干しだしの味噌汁の具を多くして、デイ・サービスの昼食とあわせて「1日30品」と言われる栄養バランスは何とかいけるか、というところです。彼女はよく食べます。そして寝ついたあとは、朝8時の目覚ましのクラシックがかかるまでぐっすり眠ります。 

 常時幻視状態というのか、「今誰か○○と言った」と言います。NHKの『ニュース7』を見ながら夕食を食べていて、森田キャスターを指差して「あの人の夕食は?」と言ったり、テレビの声に答えたりで、私はそこまで対応できそうもなく、もうテレビはほとんどつけません。
 夕食後、歯をみがいてやるのに洗面所を使っていたのですが、鏡に写る自分を指差して「ホラ、あの人笑ってる」と言うので、これもやめて、流しでするようになりました。
 インフルエンザの予防に“うがい ”と手洗いを、と言われています。手洗いはできるけれど、のどの奥に温湯を入れて上を向いての“うがい ”が彼女にはもうできません。不安なのでしょうか。私がそばでやって見せても、口に含ませたあと吐き出します。

 家で過ごす時間の大半は歌っています。不安定な時も、CDをかけて私が歌っていると、そのうちに歌い始めます。歌詞(日本語の)はずいぶん忘れてきたけれど、メロディーは全く確かです。「メロディーは 右脳を使いますし、歌詞を覚えているのは左脳です」(1993年『暮しの手帖』43号「いまアルツハイマー病は」P.142 平井俊策)という“教科書”通りなのだと実感しています。

 12月、早い雪の中を東京の和子の姉が訪ねてくれました。特養ホームで、2人にとってなつかしい歌を30分程歌って、楽しい時間でした。昼食時間の和子と別れ、家にきて姉と話しました。「和子ちゃんに今できることは」と聞かれて、「歌うことだけ」と答えました。手先が器用で、子どもたちの着る物も手で縫ったし、編み物もずいぶんしました。字もきれいで、文学少女だったから、いろいろ書いていました。こう思い出すと胸が痛くなるけれど、でも歌が残ったし、今それを一緒に楽しめるから幸せなのだと思います。二人とも今特定の信仰を持っていないけれど、クリスチャンの教え子の何人かから、「和子さんの歌は“神様の贈物”だと思います」と書いてきました。そうなのだと、改めて思います。                                

 東京の教え子たちが、「介護日記」を載せるホームページを開いてくれました。私も68歳(もうすぐ69歳です)の手習いで何とかパソコンのキーボードを打っています。「アメリカからも見ています」という教え子からのEメールもあり、インターネット時代のすごさを実感しています。くわしくは次回に書きます。

 

 次回は、この小樽に春が訪れる頃に、と思っています。「ホームページ」のこと、障害者手帳のこと、1人で見た映画『レ・ミゼラブル』のこと、2年間に3度経験した2人での入院生活のこと、4年前のイタリア旅行のことなど、今までレポートに書き落としてきたことも少しずつ書いていきます。

 教え子の女医Mが年賀状に、「レポートをあらためて読むと、しっかり固めているようでも、一つ誤れば、の綱わたりなのだと思いました」と書いてきました。そうなのかも知れないけれど、綱わたりしながら下を見ると落ちるので、前を見て生きていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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