'99年5月3日 憲法記念日

 

 小樽もここに来て急に春の装いです。冬が長く、雪が多かったことと関係があるのか、今年は辛夷(こぶし)の花がことのほかきれいで、白い花が谷を埋めました。連休でショート・ステイの彼女と近くの公園に「外出」して、コブシを入れて写真を撮り、公園の中をあるきながら歌を歌いました。  
 今は週末4晩(なか3日)のホームのショート・ステイと週日4日のデイ・サービス(祝日は休みです)を利用して、3日間家での生活です。
 暖かくなったので、雨でも降らなければ、デイから帰った後近所を歩きます。それで疲れてすぐ眠るように思える日と夜中まで寝ない日があり、いろいろです。3日続けて寝ない日は私も不寝番の気味もあり疲れるけれど、そのあとショートの時ひたすら眠ります。 
 

 先回一言ふれましたが、東京の教え子達が私の『介護日記』をのせるホーム・ページを作ってくれて1月1日にアップしました。以来4ヶ月余りでアクセス数が3000人を超えました。高校生や介護現場の人達のコメントも載って励まされ続けています。
 私もパソコンというものに初めて触って4ヶ月です。高校の現場でワープロが使われる前の世代ですからたいへんだけど、なんとかEメールもやっています。使える時間も余裕もあまり無いのですが。
 

 この1月に彼女の障害者手帳の期限の2年が経ち、また2年間更新になりました。今までこの手帳のことを書かないで来たのが気になっていました。2年経って、やっと書けるようになったのかも知れません。

 2年半前(1996年)の秋ごろは、彼女の精神症状(せん妄や鬱)が激しかった時期です。教え子と行ったお寿司やさんで大声を出したり、家の中でも大荒れで、自分でケガをする心配もありました。
 10月初め頃極度の食欲不振になり、エコー検査で胆石が見つかって入院手術をしました。これは前に書きました。手術前の濃厚栄養点滴をしているとき、明け方自分でチューブを引き抜き(私が付き添っていたのですが、異常な気配に気付いた時はもう抜いた後でした)、ドクターとレントゲン技師が飛んできて、レントゲン室で透視をしながら心臓近くまで入っていたカテーテルの切れ端をやっと取り除いたという事件もありました。
 退院して3日後、前から予定していた正倉院展を見る旅に出るという強行軍もしましたが・・そして本人は満足したのですが・・、年末冬至の日、「暁の家出」をして両足指凍傷になり、警察で保護され、そのことも「事故報告」に書きました。

 その秋の初め頃、在宅介護支援センターのワーカーが「65歳未満の方には殆どお手伝いできることがありませんので、せめて医療費だけでも」と言って障害認定の申請書類の用紙を持ってきてくれました。
 申請が通れば主治医のクリニックでの通院医療費だけは私の家族扱いの3割から5%になるというのです。
 年が明けて'97年の1月末、保健所の保健婦さんが手帳を持ってきてくれました。
 青い色の免許証サイズで『障害者手帳ー北海道』と表紙にあり、中を開けて一瞬息をのみました。「精神保健及び精神障害者福祉に関する・・・保険福祉手帳ー障害等級1級」と書いてあります。表紙に「精神障害」と書くことを避けた配慮なのかな、と思いました。
 1級というのにびっくりしたけれど、診察代と薬代は30%から5%になりました。

 その2月から特養ホームのショート・ステイが利用できるようになりましたが、東京から持ってきた前輪駆動車では山の上にあるホームへの道が登れず、坂の下に車を置いて雪道を和子の手をひいて上がりました。
 その頃和子は、進行中に車のドアを開けたり、後ろ向きに乗ったり、車の床に座り込んだりでとてもたいへんでした。このままでは”命に関わる”と思い、四輪駆動車に買い換えることにしました。RV車の後部座席を彼女の指定席にして、チャイルド・プロテクションをセットすれば内側からドアを開けられないように出来ることも知りました。
 ここは静かで空気もおいしい山の中です。バスは温泉と小樽駅を往復している便が昼間は1時間に1本です。病院に行くにも、山の上のホームに行くにも自動車は介護用に必需品です。 

 『障害者手帳』に付いてきた保健所の説明書の下の方に「通院等に使用する自動車の免税措置・・」という記述を見つけました。道税事務所に問い合わせて、取得税と毎年の自動車税が免税になることを知って手続きをしました。支援センターのワーカーから「よく見つけましたねえ」と言われました。
 『身体障害者手帳』や『療育手帳』の場合は、自動車の税金や、交通機関も本人と付き添者割引があることは割と知られているけれど、この『障害者手帳』での在宅生活はほとんど先例が無いらしく(小樽では第1号だそうです)、私が見つけなければそのままでした。
それにしても申請主義という今のシステムは、申請しない限り行政の側からは何も教えてくれないことが改めて判りました。

 その小樽保健所の説明書の最下部に「現在のところ、JR・航空機等の割引はありません」とわざわざ四角で囲って「明示」してあります。読んだとき、「でも、一人で旅行出来るわけ無いけどなあ」と思いましたが、しばらくして意味が判ってきました。つまりこの法律は、『障害者手帳』を持つ障害者が、公共の交通機関を利用することを初めから想定していないらしいことが。
 でもそのあとも、私たちは何度か飛行機にも列車にも乗りました。今はもうそんなことは無理になりましたが。

 その年の4月、私の札幌南高時代の山岳部のOB・OG会が一泊で開かれました。若くして前年亡くなった山岳部の仲間の追悼でもありました。
 私が5年間顧問として関わった50歳前後の教え子達にずいぶん励ましてもらいました。幹事が私の介護レポートを、前もって参加者全員にコピーを送ってくれていたのです。学校祭で展示する山の写真の引き伸ばしを我が家でやったので、彼らの何人かは三十数年前の若き日の和子を知っています。
 そのOBの一人から、この正月珍しく年賀状が来ました。住宅のリフォームの会社を経営していて、「お役にたつこと、何でもします」と書いて来たので、電話で相談しました。ベッドがある部屋が和室で、畳の上でも何度か失禁しているので、気になっていたのです。
 大工さんを連れて下見に来て、この3月に和子のショート・ステイに合わせて工事をしてもらいました。
 畳の部屋をフローリングにして、入り口の戸の枠を取り外して新しく入れ替え、居間と廊下との間の段差も解消しました。4日かかった大工事でした。

 入り口の出入りに気を付けてはいたのですが、段差に何度も足をぶつけて彼女は痛い思いをしていました。
 普通なら何も問題のない部屋の造作が、障害(まだ足が不自由な訳ではないので、見当識失調なのでしょう)を持つとバリアーになる事を日々実感していました。デイやショートの生活では段差は全く無いので。工事が終わって一ヶ月余り経ちますが、随分楽になりました。

 請求書がきて、ワーカーに電話で報告したら「たぶん相場の半値では」ということです。
 2年前に市の補助でトイレに手すりをつけてもらいました。身体障害者を対象にした「歩行支援用具補助」制度の適用で、これも身体障害以外の初めての適用だったようです。
 何年も一緒に生活していると「何をどうしていいのか自分でわからない」彼女には、身体障害と精神障害の区別などは無いというのが実感です。        

 東京にいた頃、江戸川区(だったと思うのですが)の在宅支援の制度が新聞・テレビで話題になりました。
 自分の家に住み続けたい高齢者の住宅改造費用を、200万円まで全額区費で持つということで、テレビに出た区長が「ハコモノを作る費用の十分の一で出来る」と言っていたのが印象に残っています。
 小樽市には住宅改造補助制度は無いので、教え子と出会って幸せでした。

 ここしばらく和食のお総菜ばかり食べていたので、しばらく振りにトマト・ソースを作ってパスタを茹でました。
 台所でお皿に盛って、お盆に載せる一瞬前に、彼女が手伝おうとしたのでしょう、一皿持って運ぼうとして少し傾け、中身が全部床のカーペットに落ちました。
もう一つのお皿を運んで彼女をテーブルにつかせ、先に食べさせながら急いで始末をしました。「さて、どうしようか」と考え、冷凍庫のパンをレンジで暖めてオニオン・スープに浸して食べ、パスタも2人で分けて食べました。カーペットにトマト・ソースの色は残ったけれど、残骸を目に触れないようにすれば、何とか彼女の心に残らずに済みそうです。
 ワーカーに話したことがあるのですが、「配膳の修羅場のとき、10分間だけヘルパーが欲しい」と思います。
 いつか藤沢の教え子が「後藤家のメニューに興味がある」と、ホーム・ページの掲示板に書いていました。そのうちにと思っていましたが、この頃は和子が幾つものお皿の中身を混ぜてしまって食べるので、「うーん、メニューの紹介というレベルでもないなあ」と思ったりしています。胃袋に入ってしまえば同じですが、それでも食材の味を楽しめるように、手を添えるなり工夫をしていきます。

 先週の夕食の時FMを聴きました。ピアニストの小林和音のドリーム・トリオというグループがシューベルトのピアノ三重奏曲を弾いていました。
 シューベルトの変ロ長調のこの曲は私が彼女に出会う前に持っていたLPで、初めて彼女に貸した1枚です。食事が終わった彼女はずっと曲に合わせて口ずさんでいました。
 シューベルトの曲が終わって、次はチャイコフスキーのピアノ・トリオでした。「偉大な芸術家の思い出」というタイトルの、ルビンシュタインに捧げられたこの曲もよく覚えていて、40分もかかる長い曲のメロディーにあわせて歌っていました。この曲は彼女にシューベルトのLPを貸した頃、ラジオ(もちろん当時FM放送などありません)で聴いた私が好きな曲だと言ったのを彼女が覚えていて、後に誕生日にLPをプレゼントしてくれた曲でもあります。  

 「珍しく今日はクラシック・アワーだなあ」と思いながら私が図に乗って「チャイコの『四季』(ピアノ曲で12ヶ月それぞれタイトルがついています)もきれいだねえ」と言ったら、「これ、トロイカ」と言って『11月ートロイカ』のメロディーを歌いました。
 37年も前のことや、20年も前の『四季』のレコードのことを、今の彼女が覚えている訳はないけれど、メロディーが残っている右脳はやはり損傷を受けないで健在らしいと改めて思いました。
 CDの時代になってLPのプレーヤーはずっと使っていませんでした。こんなに健在ならば数十枚のLPを、また彼女と聴き直そうかと思っています。

 

 和子が不安な時はどうしようもなく、ただ抱きしめていることもよくあります。吉田ルイ子という、アメリカに住んでいたフォト・ジャーナリストがいます。彼女の本に『Kiss me and embrace me(キスして、そして抱きしめて)』というのがあったのを思い出しました。
 エイズにかかった青年を取材したフォト・ルポルタージュだったと思います。
 冬の間はそんなことを考えながら、嵐が過ぎ去るのを待つということが何回もありました。でもやっと春がきたから、また元気を出してやっていこうと思います。

 書き残したことがたくさんありますが、また次回以降に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

介護日記目次  戻る  ホーム  進む