'98年11月10日

 錦繍にいろどられた小樽から秋の便りをと、思っているうちに、もう雪が降りました。でも例年より10日遅い初雪だとか。車のタイヤも冬のにとり替えました。今年も素敵なきれいな秋でしたが、アッという間に過ぎました。

 前のレポートを書いてから5カ月たちます。薬の置き換えがうまくいって、和子は相変わらず笑顔のある毎日を過ごしています。日によって時間によって、もちろん不安定なこともありますが、いつ何が起きるかわからない毎日だった1年前と比べると、比較にならないおだやかさです。寝つきが悪い日もありますが、眠ってしまうと早朝4時頃まではぐっすり眠ります。寝顔もおだやかで、この何年間のけわしかった寝顔を思い出して、こんなおだやかないい顔で眠っているのに、どこが病気なのだろうとフト思ったりします。

 しかし病気そのものは進行して、食事から排泄までほぼ全介助という状態になりました。食事は、途中で何だかわからなくなり、口の中へ私が運んでやることもよくあります。トイレを自分で教えることもなくなり、連れて行くのがおくれると失禁します。会話らしいものが成立しなくなり(人と会った時のあいさつなどは、きちんとできるのですが)、意味不明の彼女の話の相手をしていて私がちょっと生返事をすると、「今あなた聞いてなかったでしょう」ととても敏感です。機嫌がいい時は相変わらず歌って過ごしています。

 

 デイ・サービスとショート・ステイを組み合わせて利用するようになって、娘は全く母親と顔を合わせなくなりました。そんな状態で半年たった頃、デイ・サービスから帰った和子とマンションの入口でバッタリ顔を合わせ、「あら和子ちゃんしばらく。お元気?」と娘は言いました。そのあと私達が部屋に入ってから和子は「今の誰だっけ?」と言いました。「顔を合わせないと忘れられる」という“教科書”通りの場面でおどろきました。毎週月曜日の朝、特養ホームに迎えに行って、廊下をゆっくり歩いている(これを業界用語では“徘徊”と言うのでしょうか)彼女を、「和子ちゃーん」と呼ぶと、目を輝かせて近づいてきて「やっと来た。どこへ行ったかと思っていた」と必ず言います。それで「今回も大丈夫だった」とホッとするのですが、これも時間の問題なのかも知れません。

 病気がわかって6年たちます。その時、脳のい縮の状態などから、「発症から5年ぐらいたっている筈」と言われましたから、そこから数えるともう10年以上です。今月彼女は62歳になりますから、50歳そこそこから病気は始まっていたのかなと思います。彼女の歌が残っていることについて主治医は、「おそらく右脳のある部分が固いコアに囲まれて病変を受けつけないのでしょう。すごいことですよ」と言います。少し前のレポートに書きましたが、彼女は古い記憶にある歌だけでなく、初めて聴いた歌のメロディーを1度で覚えてしまうこともあります。今の脳学ではほとんど何も解明されていないようですが、考えてみれば200億個もあるという脳細胞の中で、CTやMRIにあらわれるある部分(それはせいぜい数十億個の単位でしょう)がこわれてきていて、それで日常生活の能力が失われてきているとしても、残りの膨大な部分は残っているわけですから、当然なのかも知れません。私はまだ彼女の生活介助は苦にならない(肉体的にはそうもいかないので週末ショート・ステイの間ゆっくり眠って又翌週に備えるのですが)ので、こんなやり方で一緒に歌って過ごせれば、それもいい人生かと(私は68歳ですが、“老後”という実感は全くありません)思って過ごしています。

 

 実はレポートには書いてなかったのですが、去年の暮、私が救急車で入院したことがあります。金曜日の夕方で、私が和子を迎えに来ないのをおかしいと感じたデイ・サービスのスタッフが家まで来てくれて、意識がはっきりしない私を見つけて救急車の手配をしてくれたのでした。和子はショート・ステイに連れて行ってもらって、私は病院に2泊して無事帰ってきました。自覚症状は残らず、検査もしたのですが、結局「TIA(一過性脳虚血症)の疑い」ということでした。よくある例なのだそうですが、一過性でなければ脳梗塞の障害が残るので、一過性で幸運でした。

 夏、西高図書局で一緒に活動した最後の教え子達6人が家に訪ねて来てくれました。その中に現・元看護婦が2人、医師が1人居たのですが、その話をしたら、緊急時の態勢をもっときちんと作っておいた方がいいと言われました。緊急ボタンはあるのですが、胸のアタックがあった時、ボタンに手がのびかけて(ニトロで何とかおさめて)、やめたことが何度もありました。救急車に和子を私の“付添”として乗せて病院へ行っても、その先和子をどうすればいいのか、特養ホームとは、緊急時いつでもショート・スティを引き受けてもらう手筈は出来ているのですが、循環器の病院からその特養ホームへつなぐ方法が見つからず、緊急通報ボタンに手がのびても使えないのが実状でした。病院の主治医に話をして、その時はその病院から和子を特養ホームに連れて行ってもらえることになり、カルテにもその時の緊急連絡先を書いた紙を貼ってもらいました。マンションの知人、東京の長男、そして夏来てくれた元看護婦のところへ緊急連絡が行く手だてもととのいました。

 この小樽では福祉のサービスは、特養の緊急時受け入れ以外、土・日・祝日と夜間は利用できないのですが、教え子達の知恵と助けを借りて、何とか態勢を作りました。NHKの福祉番組で、この頃よく実例が報告される「24時間介護態勢」が自治体レベルで出来れば安心なのですが、この地ではまだ「道は遠い」という感じです。

 

 この夏も同期会やクラス会で教え子達に会い、私のレポートの読者もふえました。応援団が増えてくるのが実感できます。札幌で西高28期の教え子の1人と会った時、彼女は中1の長女を連れて来ていて、一緒に話をしました。その子は、前に2度程和子と会ったことがあり、レポートもずっと読んでくれていて(小学4年の頃から)和子のことを気づかってくれています。後日その教え子が電話で「うちの娘は先生達御夫婦の多分いちばん若いサポーターなのでしょうね」と言いました。“サポーター”という言葉の実感が身にしみました。

 今年は3回しかレポートを書きませんでしたが、和子に笑顔が戻り、福島の教え子の医師が言った通り、大きな崩れはなく年を越せそうです。病気の進行そのものを止める手だては無いので、彼女の感情が安定することと、介護の手だてをつくすことしかできないのですが、今年もたくさんの支えをもらって1年がたちました。レポートを送る先もふえたので、早目に準備をします。

 まだ年末には早いのですが、どうぞよい年をお迎え下さい。お正月は彼女は特養ホームでショート・ステイですので、いつでも御案内します。彼女の笑顔を見に、そして彼女の歌を聴きにどうぞおいで下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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