'98年6月20日

 きのうは桜桃忌、若かった私に強い印象を残した太宰治の死から50年たちました。何年も前、NHKテレビの『日曜美術館』で遺児の太田治子が、アシスタントの司会をしていたのを和子と一緒に見ていました。私達の東京時代、田無の図書館に彼女のエッセイが何冊かあって、借りて読んでいました。和子も毎晩寝る前にそれを読んでいたけれど、毎日同じページ(前の日の記憶がないから)を開いていたのを思い出します。

 

 今日は終日雨、最高気温は15度だとか。6月にはいって梅雨空が続き、温度も低く、素敵な北海道の初夏はまだなのですが、今日は明るい便りを書けます。この1ヵ月あまり、和子におだやかな笑顔がもどってきて、私もずいぶん気持が楽になりました。ゆっくりした歩行以外は、食事も着替えもトイレもほとんど介助が必要ですし、会話らしいものもできない状態は変わらないし、「今誰か〜と言った」という幻覚もたまにはあります。でも彼女に明かるさが戻り、音楽を聴いたり、歌を歌ったりする時間を一緒に楽しんでいます。レーザー・ディスクでルーブルやオルセーの絵も一緒に見ています。朝、彼女と手をつないだままで、パンを焼いて飲物を用意するのがせいいっぱいだったのが、今は彼女が静かにFMの音楽を聴いている間に、私はサラダと目玉焼をつくることもできます。

 

 実は2ヵ月程前、私の教え子で福島県立医大を出た医師が、会津の病院で痴呆疾患センターの専門医をしていることがわかり、10年ぶりに連絡がとれました。今迄のレポートも送って相談をしました。その病院が、基本的に在宅介護ができる治療を試みているのを知りました。彼が小樽の和子の主治医(睡眠障害が専門の神経内科なのですが)に依頼をしてくれて、会津の病院で効果が出ているという薬に置き替えを試みて1ヵ月余りたちます。和子はずいぶん明かるくなり、“せんもう”らしいものも基本的に無くなりました。「もしクスリが効けば、今後大きな崩れはないでしょう」という、その教え子の医師の言葉で、少し希望が持てるようになりました。

 

 まもなく参院選です。彼女が字を書けなくなったので、一昨年の衆院選から彼女は棄権です。それでも投票所の入場券は送られてきます。当り前かも知れないけれど、「どうして?」とも思います。

 少し私にも余裕ができて、毎月アムネステイから送ってくるニュース・レターを読んでいます。アムネステイ日本支部の会員数が減少して8千名を切り、財政危機状態にあるのがわかって、和子の分とあわせてカンパを送りました。10年程前、たまたま見た『徹子の部屋』で、日本人でないイーデス・ハンソンが日本支部長をしているのを知ってショックを受け、和子と相談して年1万円の賛助会費を払いつづけています。6年前東京に転居した時、専従スタッフが3人しか居ないという東京支部(日本支部)の手伝いをしようと思っていたのが、和子の発病でできなくなりました。その頃、ロンドンにある本部には400人の専従スタッフが居ると、ニュース・レターで読んだ記憶があります。

 

 4月はじめ、札幌で上映していた映画『ユキエ』をひとりで見ました。93年前期の芥川賞受賞作・吉目木晴彦『寂寥(せきりょう)郊野』の映画化です。戦争花嫁で渡米した主人公ユキエがアルツハイマー病になる−倍賞美津子がそのユキエの役を好演して、心に残りました。その中で、ユキエが訪ねてきた次男に、「私たちはスロー・グッド・バイをしているのよね」と話すシーンがあります。告知社会のアメリカだから、もちろん告知されたあとのことだけれど、新しい記憶がダメになるこの病気で、告知されたことを覚えていてこんな話をするのかなあと、田無にいた時原作を読んで感じたことを思い出しました。私は、告知も臓器移植も含めて、アメリカ社会の医療のあり方を納得しているつもりだけれど、この病気(若年性の“まだら呆け”と呼ばれる状態の)の患者に、告知することには今でも疑問があります。和子も、「私アルツハイマーなの?」と私にたずねたこともあったけれど、翌日はそのこと自体を覚えていなかったから。多摩のA病院のドクターも、もちろん本人の前では言わなかったし、告知されたことは忘れても、その時受けた打撃の傷は残るだろうと思ってきたことがよかったと、今でも思っています。今はもちろん病気もすすんで、そんなレベルではなくなってしまっていますが。

 

 「介護日記」というのからハミ出してしまったけれど、間もなくやってくる素敵な北海道の夏を、元気で過ごしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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