'98年3月22日

 去年11月にレポートを書いてから4カ月余りたちます。あの時は、近づく冬に身構える気持ちがあったことを思い出しますが、3月もあとわずか、北海道もやがて春です。今年は桜前線の動きも早いとか。毎日行くところがなかった去年の冬と比べて、彼女は週5日デイ・サービスがあるので、私はずいぶん楽です。

 今年になって又“せんもう”が始まって、大荒れしたこともあります。廊下に置いてあった米の袋を床にブチまけたり、急須を机にたたきつけて割ったり、本の表紙を引き裂いたりもしました。そんな時の目は殺気だっていて「みんなアイツが持っていっちまった」と叫んだりします。教え子の精神科にかかわっている医師に電話で話しました。彼は「少し向精神薬を使った方がお二人にとってハッピーなのでは」と言います。主治医と相談して、去年出た新しい向精神薬(メジャーのトランキライザー)を使いはじめました。その効果が出てひどい“せんもう”がおさまって不安定ながら何とか無事な時間をすごせるようになりました。去年の薬はパーキンソンの症状が出て、服用をやめたのですが、今度の薬は今のところ副作用もなくホッとしています。

 

 しかし日常会話らしいものはもうほとんど無理で、幻覚もあります。不意に「今居た男の子は?」とか、前ぶれもなく「昔はさ、男女が別々だったでしょう」とか、「若い人はもっときれいにしなさいと言われたの」とか言います。ひとつひとつは文章になっていても、前後の脈絡は全くないので、それにあわせて「そうだね」とか応答するしかありません。それが彼女の何かのサインなのかも知れませんが、私にはわかりません。「私達出会って何年ぐらいたった?」と聞くと「10年ぐらいかな」と言います。一方で長男が30過ぎだということは知っているのですが。去年、老人健康施設のショート・ステイを利用するための検診でCTを撮りました(そこのショート・ステイも、いろいろあって4カ月利用して、又もとの特別養護老人ホームに戻りました)。東京で初めてCTを撮った時は、右側頭葉の前部にい縮が見られたのですが、去年のは前頭葉も、い縮が見られ−前頭葉は論理回路の中枢だから−会話が成立しなくなったのも、検査どおりという感じもあります。

 

 機嫌のいい時は相変わらず歌を歌って過ごしています。彼女の歌の貯金箱には何百曲もあります。3年前のナショナル・ジオグラフィックの日本版の“脳”の特集に「音楽はアルツハイマー病に侵されにくい脳の部分に記憶されているとみられる」とあったのを思い出します。ただこの頃、知っている歌の歌詞の呂律が回らないことが時々あり、それも病気の進行なのかなとも思います。

 昨年末に、私にとって大きな発見がありました。クリスマス・イヴに、その前日BSで録画した「シセル・シルシェブー・クリスマス・コンサート」を見ました。4年前のリレハンメル・オリンピックの開会式で歌った歌手です。その中の、今迄私達の知らなかったノルウェーのクリスマス・ソングのメロディーを彼女は一度で覚え、翌日珍しく早い時間に顔を見せた娘の前で、ビデオを見ながら一緒に歌いました。知らない曲を一度で覚えるという能力を、彼女が前から持っていたのかどうか私にはわからないのですが(ピアノを弾けたからそんな必要もなかったのでしょうが)、同じ声楽専攻の娘は「とても私には太刀打ちできないなあ」とつぶやきました。新しいことの記憶が全くできなくなった(それで彼女の病気がわかったので)彼女が、まだこんな能力を持っていることにおどろかされます。

 彼女の実家のある町に住む幼なじみが先日亡くなりました。小・中・高とずっと一緒で、その人は彼女の病気を知って、ずっと気遣ってくれていて、去年5月最後の旅行で実家に行ったとき、3日続けて会いました。今はもう旅行がとても無理なので、お悔やみにも行けなかったのですが(実家の妹が行ってくれました)、その親友が亡くなったことを和子は忘れていません。去年私の次兄が亡くなった時もそうでしたが、人の生死にかかわることは、彼女の新しい記憶にも残るように私には思えます。

 

1年前彼女の弟の妻から手紙が来ました。「お怒りになるかも知れませんが、肉親の中には治さんのなさっていること(私がレポートをたくさん送っていること)で、和子さんがさらし者になっていると感じる人もいるのではないでしょうか。その人達の身になって考えてあげることも必要なのでは」と。私は彼女が自分の病気とたたかっていることを、たくさんの人に知ってもらって、少しでも彼女の応援団をふやしたいと思って書いていたのに−と、ずいぶん傷つきました。一晩眠ることもできないで、翌日「私は、私達の身になって考えてくれる人達とだけ付きあって生きて行きます」と書き送りました。後日そのことを教え子の一人に話したのですが、彼女は電話口でキッとした語調で「さらし者なんて思っている人誰も居ませんよ!」と言いました。判ってくれない肉親もいるけれど、判って応援してくれるたくさんの人達に支えられて私達は生きていきます。

 「レポートの宛名書きがたいへんでしょう」と東京の教え子が電話をくれて、200人余りをシールにしてくれました。彼女の日常をレポートするのは辛い作業ですが、新しい発見もあり、応援もたくさんあるので何とか書き続けて行こうと思っています。

 教え子の建築士が手配してくれて、玄関のドアに同じ鍵で内側からもロックできるシリンダー錠がつきました。今は薬が効いているようで玄関から外にとび出すことはないのですが、安心がひとつふえました。今回はこの辺で。次は暖かくなって、春の便りを書けるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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