'97年11月8日

 小樽の秋もそろそろ終りですが、今は黄金色に色づいた“からまつ林”がきれいです。

 デイ・サービスに通うようになって、和子もいいケアをしてもらい、私もその間に用事をすませられるので、戻ってきた彼女ときちんと「向きあえる」ようになり、彼女も安定してきています。幻影の「アイツ」も、ここしばらく現われていません。彼女の好きな、日本や外国の抒情歌のCDを見つけてきて、それをかけながら毎晩何十曲も歌っています。「この道」から「エーデルワイス」まで、このCD2枚には36曲入っています。

 

 11月からデイ・サービスは月〜金の週5回(祝日は休みですが)利用するようになり、金曜の夕方デイに迎えに行ってショート・ステイに送ります。ショートで3泊(中2日)過ごし、私はその間にたまった寝不足を解消し、少しやりたいこともできます。月曜の朝ショートに迎えに行き、デイへ送って行きます。こんなサイクルでしばらくはいけそうです。年末年始の9日間デイ・サービスは休みです。家で“お正月”ができればいいのですが、毎日4〜5時間しか眠らない彼女と、24時間毎日つきあうのは物理的に無理なので、ショート・ステイを利用します。お客様は、彼女との面会にご案内しますので、今まで通りどうぞおいでください。今年も私の教え子が3組、彼女のショート・ステイ中に面会に来てくれました。

 彼女に“せんもう”状態が現われた去年の暮ぐらいから、睡眠薬を使ってもすぐ起きてきて、一晩中眠らない状態がひんぱんに続いていました。2月からのショート・ステイ利用でそれを何とかしのいできたのですが、夏少しまえ主治医から、アメリカで売っている(日本では手にはいらない)メラトニンという薬−向こうでは時差ボケを直す食品として売られているようです−が“せんもう”に効くかもしれないと聞きました。アメリカでドクター・コースを勉強中の教え子−彼女のお母さんとは30年近く前の共同学童保育のときの親仲間です−と連絡がとれ、航空便でそのメラトニンが送られてきました。7月なかばから、毎晩寝る前に1カプセル睡眠薬と一緒に飲んでいますが、それが見事に効いて、今はほぼ100パーセント途中で起き出すことはありません。トウモロコシから抽出した植物ホルモンのようですが、なぜ日本で売られていないのかわかりません。朝は相変わらず早起きですが、夜中の“せんもう”の恐怖がなくなっただけ、どれ程楽になったかわかりません。

 

 前回のレポートに少しふれましたが、9月末のある晩「体中が痛い」と大声で一時間も叫び続けたあと、疲れてベッドで休みました。少したって声をかけてみたら、目にいっぱい涙を浮かべて、「私、キュリー夫人のようにやりたかった。疲れてもうできないと生徒に言わなくちゃ」と言います。「いっぱい働いたから、神様も許してくれると思うよ」と言ったら、「そうねぇ」と納得して起きてきてそれから遅い夕食をとりました。

 その“生徒”が高校生なのか、音楽教室の子ども達なのかわかりません。彼女が『キュリー夫人伝』を読んだのは、35年前私達が出会って間もなく、私がこの本を貸した時しかないと思うので−結婚してから話題にしたことはありません−、30年もの間フルタイムで働きつづけてきた彼女に、まだ“未達成感”が残っていたんかなぁと、改めて思いました。私が授業でとりあげた『キュリー夫人伝』について書いたレポートの一部を添付します※。この病気の『教科書』には、病気の進行について、“まだら呆け”ということがよく書いてありますが、日常会話もできなくなった彼女が、こんな話をしたのはおどろきでした。そのあと、「私達はいっぱい働いたから、もうゆっくり休んでもいいんだよねぇ」という会話を何度かくり返しました。こんなことで、彼女の中に残っていた“未達成感”に、少し補いがつけられたんならいいのだが、と今思っています。

 

 二十年来、彼女と私は献体をすることを話し合ってきました。東京に居た頃、骨髄バンクが始まった時(2人とも、その気でいたのですが)、年齢オーバーで登録できませんでした。代りに娘がドナー登録をし(もちろん彼女が勝手にやったことですが)、ちょうど2年前相手の方が見つかり、骨髄提供をしました。去年教え子の医師から書類をとり寄せてもらい、北大白菊会に献体の手続きをすませました。その少しあとで彼女は字を書けなくなったので、それが彼女の自筆の意思表示の最後になりました。今この小樽で福祉のサービスを利用するのに、いろいろ書類が必要ですが、その本人の欄も今は私が全部書いています。私達はお葬式をしませんし、お墓も作りません。そのように子ども達にも言ってあります。私達を知って下さっている方達の、心に少し残してもらえば十分です。

 献体のことを話した知人から「あまり準備のいい人は、なかなか死なないんですよ」と言われました。和子も内科的にはごく丈夫ですし、食欲もこの頃出てきました。私も寒くなると多少胸のアタックもありますが、できるだけ暖かくして無事に過ごしたいと思っています。冬になる前から、春の到来を待ちこがれた1年前を思い出しますが、この冬は彼女は週5日も温泉付きのデイ・サービスがあるので、ずいぶん恵まれています。元気で過ごしていきます。

                             

※私は物理の教師です。物理の授業は生徒達(とくに女生徒達)から、「むずかしい」「わからない」「頭が痛くなる」と嫌われる教科で、特に文系を自認している生徒からは「理屈っぽくて」「ロマンのない」学問だと思われていたようです。でも、私は自分が物理の教師になった動機の一つに、大学にはいる前に読んだ『キュリー夫人伝』(娘のエーヴが書いた母親の伝記)の感動があり、授業で物理の理屈を教えるだけでなく、人類の文化の発展の中での物理学の役割とそれへの感動を、つたないながら伝えようと試みてきました。授業が最後の原子物理学にはいったところで、『キュリー夫人伝』の中のラジウム発見のくだりを生徒に読んで聞かせました。

 

 数か月このかた、ピエールとマリーをうちょうてんにしているこの現実は、かっての無邪気な願いをはるかに越えた美しいものだった。ラジウムはたんなる《きれいな色》以上のまったく別なものをもっていた。ラジウムはひとりで発光するではないか!暗い倉庫の中で、貴重な小片が、それぞれ小さなガラスの受けざらのなかにおさまって−戸だながないものだから−机の上や、壁につったたなの上にのせられて、青白いりん光を発するほのかなその姿が、暗やみの中に点々と光っている。

 ――まあ……ごらん……ごらんなさい!と若い妻はささやく

 彼女は用心深く進み、手さぐりでわらいすを一脚見つけて、腰をおろす。やみの中で、しじまの中で、二つの顔がじっと青白い光のほうへ向く。神秘な放射線の源、ラジウムのほうへ――ふたりのラジウムの方へ!まえかがみになり、熱心に顔をこわばらせて、一時間前に、寝入っているかわいいわが子のまくらもとでとったあの姿勢を、マリーは再び見せている。         

 夫の手が彼女の髪に触れる。

 彼女はこの晩のことを、ほたるの飛ぶ夏の夜の幻想を起こさせる夢の世界のような、この晩のことを、永久に忘れないであろう。

   (エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』白水社から)

 

 キュリー夫妻が、清貧の中で三年間の苦闘によって、独力でラジウムをみつけだしたこの一節は感動的ですし、生徒達の心もうったようです。しかし、同時にそんなふうに感動的に人類の前にその姿をあらわしたミクロ(原子)の世界が、わずか五十年後に、悪魔の兵器ともいうべき原子爆弾という形に変貌したことの重大さと、それへの怒りを話さないではいられませんでした。学年の終りに、「核開発の歴史と理論」という特設授業を組み、原子爆弾の物理的メカニズムと、日本にそれがなぜ落とされることになったかという経緯、そしてその後の米ソ二大国を中心とする開発競争の実態をかけ足で説明しました。毎年、生徒に書かせた感想文にも、「はじめて知った。日本人としてはずかしい」「知ってよかった」「政治に無関心だったことを恥じている」などというのが多くみられました。

 

 その年(二年前)は、二回目の国連軍縮特別総会が開かれる年で、日本の反核運動も空前の盛り上りをみせました。私自身もカンパで「五・二三反核平和のための東京行動」に参加して、ティーチインの広場で、長沼のミサイル基地闘争と北海道の反核運動を報告する機会を得ました。

 例年、物理の授業で原子核の話が出るのは学年末の二月頃です。しかしその年はそういう年でしたから、授業ではまだ力学をやっていましたが、あえて「やがて原子核のところでわかるけれど」と言って、「その年」のことにも言及しました。ニューヨークで開かれる特別総会のこと、代々木の森の大集会の熱気、一月二十日に出された文学者の反核アピールのこと、そしてその二年前の冬休みに、高一の息子と中二の娘を連れて「原爆を見に」ヒロシマとナガサキへ行ったことも話しました。物理を学ぶものにとって、これらのことは避けては通れないことだ、と結びました。  (『北海道の平和と教育』1984年)

 

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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