介護日記

 

 2007年11月25日

 北海道は真冬です。まだ11月だというにに、最高気温が氷点下の真冬日が何日もありました。そうかと思うと、真冬日の翌日が最高気温10度を越したりします。車が通る道は融けているけれど、マンションの窓から見える小道は、ここ1週間前から真っ白のままです。

 十勝岳連峰の上ホロカメットク山で雪崩の大事故が発生しました。日本山岳会北海道支部の登山隊11名が雪崩に巻き込まれ、4名死亡という痛ましい事故のニュースです。
 私もかつて生徒を連れてこの山を縦走したことがあります。急傾斜の円錐火山で、 この山に直登する今回のコースは深いV字谷の尾根線上で、雪が固く締まる前の、今年のような融雪と降雪がくりかえす状態は、表層雪崩が起きやすい条件なのでしょう。

 先々週、また三岸好太郎美術館に車椅子を押して行ったばかりなのに、いっぺんに 真冬になってしまって、和子の年内のお散歩は先回で最後でしょう。可哀相だけど、来春まで冬ごもりです。

 大脳の神経繊維が消滅し、海馬も痕跡だけになり、残っているのは呼吸中枢の延髄と小脳だけで、「生きているのが不思議」と医者からも言われるけれど、美術館に行ったあとの和子の表情は確実に違います。目が見えなくても、油絵の匂いや雰囲気が違うのがわかるのでしょう。帰り道はもう暗いので、往きに落ち葉と一緒の写真を撮りました。和子は71歳になりました。

 和子は、朝ヘルパーが来たとき、「和子さん、お早うございます。足を伸ばしてください」というと、毎回ではないけれど、足が伸びます。本人が意思表示をする術を持たないのだから、どこまでこちらの言うことを判っているのか、知る方法はないけれど。

 IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の総会がスペインで終わりました。1997年12月の京都議定書から10年です。「次は世界の政治家たちの番だ」と科学者達は言っています。
 朝日新聞に1992年と2002年のグリーンランドの夏に融けた氷の衛星写真が載っていました。1992年の夏には氷で覆われていたグリーンランドが、2002年にはすっかり氷が融けて黒い地肌が露出していました。
 別の日にテレビで見たアイスランドも、氷が融けて黒い地肌が露出していました。その影響からか,鱈などの漁獲量が激減し、「これでは食べていけない」と漁師がインタビューに答えていました。漁業が中心の産業であるこの国は、温暖化の影響をもろに受けているようです。
 そのIPCCにノーベル賞受賞が決まりました。世界中の政治家達も、足下に火がついてきたのを感じ始めてきたのでしょう。

 ノーベル賞と言えば、大江健三郎のノーベル賞受賞が決まり、あわてて日本政府が文化勲章の授与を決めて大江氏から断られる事件がありました。
 ノーベル賞はスウェーデン人の発明家・実業家ノーベルが、自分が発明したダイナマイトが戦争で人を殺す爆弾として使われたことを悲しみ、莫大な財産の一部をノーベル賞の賞金として残しました。
 遺言状には、遺産を使って賞を作り、科学技術、文学、平和など合計5部門に貢献した人物に賞を贈るように書いてあったそうです。
 スウェーデン政府は、ノーベル財団という民間の団体にこれを寄託し、政府も王室も関与していません。

 大江氏は、「お上」からの賞は受けないと言って断ったのだけれど、後にフランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を受けています。しかし、これもナポレオン一世が決めた、れっきとした国家勲章です。勲章と言えば、去年亡くなった劇作家の木下順二(「夕鶴」「子午線の祀り」)が、賞と名の付くものは一切断っていたことが、鮮烈な印象として残っています。

 11月3日の文化の日は、文化勲章を筆頭に、紫綬褒章に至るまで、さまざまな勲章が「お上」から授与される日です。ちょっと調べてみたら、日本の勲章の歴史は律令国家の時代までさかのぼるようです。長い歴史を経て薩長閥が絶対主義天皇制の頂点に据えた明治天皇から授与されたのが、勲一等旭日(きょくじつ)大綬章などでした。

 ながながと書いたのは、どうして日本人は「お上」から授与される勲章に弱いのかという感想を今年も持ったからです。反権力と言わないまでも、独立独歩で自分の道を切り開いてきた芸術家などが、「今までやってきたことが認められて、名誉なこと」などと言っていることが不思議でならないからです。
 紫綬褒章の受賞者の大半が公務員で占められ、問題になったことがあります。私がかつて学校で部下(?)として関わって、決して尊敬など出来ない元校長が選ばれ、その受賞記念祝賀会の案内をもらって驚いたことがあります。

 芥川賞を初めとするさまざまな文学賞やスポーツ賞、猿橋賞のように、女性科学者の先達として差別と闘いながら困難な道を切り開いてきた猿橋和子が、私費を投じて作った賞もあります。僅か30万円だけど、それを研究費に使って世界的な発見をした女性科学者もいます。そういう賞は「お上」が下さる勲章ではないのです。
 マラソンの高橋尚子が国民栄誉賞の候補に選ばれたとき、大橋巨泉が「受賞をやめたほうがいい」と新聞に書いたことがあります。彼女は結局受けたのだけれど、各方面で先駆的な仕事をやっている人の中から、ごく少数の人を、どうやって「国民栄誉賞」の対象に選べるのでしょうか。

 アメリカや旧ソ連の軍人達が、何十個もの勲章を軍服に着けているのを見ると滑稽でさえあります。北面の武士としての高い地位を捨て、『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』(山家集)と歌った西行のような人が日本人の中には居たのになあと思います。私は毎年、文化の日になると、「お上の賞に群がる人」がどうしてこんなに多くなったのかと思っています。

 沖縄戦の時、軍が民間人に自決を強いた事は、今まで生き残った沖縄の人達の証言で明らかでした。それが来年度から使われる教科書の検定で記述の削除を命じられました。
 11万人もの沖縄の人達が抗議の集会に集まりました。保守系の知事まで抗議の為に文部科学省に行きました。結局、教科書執筆者が削除された記述を復活させた原稿を教科書会社に送り、再検定の結果を待っています。

 「前の大戦は、日本が東南アジアの人々を開放した戦争だ」などと特殊な意見を持つ人達(「新しい歴史教科書を作る会」など)を検定委員に選んだ文部科学省の責任だけど、私は「教科書検定制度」などという時代錯誤な制度が、戦後60年以上たつ日本に存在すること自体が奇怪だと思っています。EUを初めとする欧米先進諸国には無い制度でしょう。スイスには連邦政府に文部省は存在せず、予算の配分以外は各州に任されています。

 中国に残された残留孤児4人が、何日かの日本滞在を終えて中国に帰国しました。戦争が終わって62年ですから、みな高齢化しています。私が札幌西高最後の授業で、当時始まったばかりの残留孤児帰国の話をしました。1983年ですから、24年もたちます。(『北海道でとりくんだこと』参照)
 戦争の後始末をしないまま戦後半世紀も放置してきた先進国は世界に無いのではないかと私は思います。唯一予算を組んでやってるのは、中国に残してきた日本軍の爆弾処理です。毒ガス弾もあり、被害者が出ています。そんな日本が国連の安全保障理事会のメンバーに加わる資格など無いし、その前にやることが多すぎます。

 教え子達の子どもが高校を卒業する年代になりました。いずれ結婚して家族を持つことになるんだろうけれど、生まれてくる次の世代に、こんなにたくさんの未処理の『負債』を残していいのだろうかと、77歳になる今、改めて思っています。


和子の近影

 三岸好太郎美術館への道

 

 

 

 

 

 

 

 秋の終わりの落ち葉と一緒に

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