生徒を動かす教師のよびかけ

生徒とともに「平和と生き方」を問う


「ヒロシマへ行きました!!」

    ヒロシマへ行きました!!

 私は小さい時分から、センソウというものを漠然と知っていたような気がします。その始まりは、きっと本だったと思います。ヒロシマとの出会いも本だったようです。しかし、本当に原爆のことをしっかと受けとめたのは、小学校四・五年のとき、原爆の絵を見たことでした。絵の横に書いてある字が読めなくても、あのあまりにも悲惨な光景を、そして事の重大さを感じることができました。
 今回の広島行きだって、最初はとっても小さなきっかけから始まったのです。京都からなるべく遠くへ行きたい。そして、その場所で数時間があればよい。そんな軽い気持で行き先を決めたのでした。最初は、観光気分で原爆ドームなどを見てこようこ思っていました。
 そんな私の軽い気持ちを吹きとばしたのが、あのすばらしい事前研修だったのです。もちろん私の心底には、広島と長崎に落とされた原爆展での、感動があったことは確実です。
 事前研修は、原爆の歴史から始まりました。10フィート運動のフイルムを見ました。NHKで放送された番組のビデオもみんなで見ました。本の回し読みもしました。原爆についていろいろ知っていくうちに、迷いは消えてしまいました。生のヒロシマをこの目で見たいと考えるようになりました。
 まず原爆ドームにあいさつをしました。これが原爆ドームなのか。最初に心に浮かんだことはこのことだったのです。それも幾分醒めた目で。
 幼稚園児とおぼしき子どもたちが、写生をしていました。うらやましいことだなと思いました。なぜって、こんな小さなうちに、センソウに目を向けさせてもらっているからです。私は小さい頃、日本が戦争をやったことは知ってはいたけれども、クウシュウはどこか遠くの出来事でした。まして、この北海道でもあったなどとは露ほども考えませんでした。
 原爆瓦の碑(『ヒロシマの碑』)は、静かなたたずまいの中にひっそりと建っていました。この碑にはめ込まれている三十七年前に原爆の閃光を浴びた瓦に触れたとき、ようやく、ヒロシマだ!!と感じることができました。瓦が語っていました。すごかったであろう灼熱地獄を。
 やはり、最も印象に残っているのは、館長さんの話です。原爆を肌で感じられた館長さんよりも私たちの方が不幸、という一言がとっても重く肩の上に乗っているのです。
 私の広島行きは、とっても価値のあるものとなりました。 (N子・高二)

 これは二年前(1982年)前任校の札幌西高で私が物理を教えた生徒達のグループが、見学旅行の自主研修で広島に行ったときのレポートの一節です。半年後私は転勤で今の学校(室蘭清水ヶ丘高)に移りました。その一年間私が受持った生徒達は、今春西高から巣立っていきました。“巣立っていった”という古風な言葉がそのままあてはまるような彼らにとっての高校生活であり、私にとっては十五年間いた札幌西高での思い出に残る最後の一年でした。
 私は物理の教師です。物理の授業は生徒達(とくに女生徒達)から「むずかしい」「わからない」「頭が痛くなる」と嫌われる教科で、特に文系を自認している生徒からは「理屈っぽくて」「ロマンのない」学問だと思われていたようです。でも私は自分が物理の教師になった動機の一つに、大学にはいる前に読んだ『キュリー夫人伝』(娘のエーヴが書いた母親の伝記)の感動があり、授業で物理の理屈を教えるだけでなく、人類の文化の発展の中での物理学の役割とそれへの感動を、つたないながら伝えようと試みてきました。授業が最後の原子物理学にはいったところで、『キュリー夫人伝』の中のラジウム発見のくだりを生徒に読んで聞かせました。

 数か月このかた、ピエールとマリーをうちょうてんにしているこの現実は、かっての無邪気な願いをはるかに越えた美しいものだった。ラジウムはたんなる《きれいな色》以上のまったく別なものをもっていた。ラジウムはひとりで発光するではないか!暗い倉庫の中で、貴重な小片が、それぞれ小さなガラスの受けざらのなかにおさまって ——— 戸だながないものだから ——— 机の上や、壁につったたなの上にのせられて、青白いりん光を発するほのかなその姿が、暗やみの中に点々と光っている。
 ——— まあ……ごらん……ごらんなさい!と若い妻はささやく。
 彼女は用心深く進み、手さぐりでわらいすを一脚見つけて、腰をおろす。やみの中で、しじまの中で、二つの顔がじっと青白い光のほうへ向く。神秘な放射線の源、ラジウムのほうへ ——— ふたりのラジウムの方へ!まえかがみになり、熱心に顔をこわばらせて、一時間前に、寝入っているかわいいわが子のまくらもとでとったあの姿勢を、マリーは再び見せている。
 夫の手が彼女の髪に触れる。
 披女はこの晩のことを、ほたるの飛ぶ夏の夜の幻想を起こさせる夢の世界のような、この晩のことを、永久に忘れないであろう。

 キュリー夫妻が、清貧の中で三年間の苦闘によって、独力でラジウムをみつけだしたこの一節は感動的ですし、生徒達の心もうったようです。しかし、同時にそんなふうに感動的に人類の前にその姿をあらわしたミクロ(原子)の世界が、わずか五十年後に、悪魔の兵器ともいうべき原子爆弾という形に変貌したことの重大さと、それへの怒りを話さないではいられませんでした。学年の終りに、「核開発の歴史と理論」という特設授業を組み、原子爆弾の物理的メカニズムと、日本にそれかなぜ落とされることになったかという経緯、そしてその後の米ソ二大国を中心とする開発競争の実態をかけ足で説明しました。毎年、生徒に書かせた感想文にも、「はじめて知った。日本人としてはずかしい」「知ってよかった」「政治に無関心だったことを恥じている」などというのが多くみられました。

「日本人に生まれてよかったか」

 その年(二年前)は、二回目の国連軍縮特別総会が開かれる年で、日本の反核運動も空前の盛り上りをみせました。私自身もカンパで「五・二三反核平和のための東京行動」に参加して、ティーチインの広場て、長沼のミサイル基地闘争と北海道の反核運動を報告する機会を得ました。
 例年、物理の授業で原子核の話が出るのは学年末の二月頃です。しかしその年はそういう年でしたから、授業ではまだ力学をやっていましたがあえて「やがて原子核のところでわかるけれど」と言って、「その年」のことにも言及しました。ニューヨークで聞かれる特別総会のこと、代々木の森の大集会の熱気、一月二十日に出された文学者の反核アピールのこと、そしてその二年前の冬休みに、高一の息子と中二の娘を連れて「原爆を見に」ヒロシマとナガサキへ行ったことも話しました。物理を学ぶものにとって、これらのことは避けては通れないことだ、と結びました。
 10フィート運動の『人間をかえせ』のビデオテープが手にはいりました。学期末の試験が終り、夏休みにはいる直前の少しダレタ最後の時問に、それぞれのクラスでこのビデオをみせました。残りの時間、図書館にある原爆の写真集や質料を見せました。いつもこの時期、授業に集中させるのに苦労するのですが、彼らは身じろぎもせず見入っていました。
 その春、社研が校内で原爆パネル展を開き、生徒の関心をよびました。いくつかの新聞にその紹介記事がのったりしました。二月頃から生徒の有志が校内で集めた反核署名は六百を越えました。この年は、こんなふうに校内の空気が盛りあがった年でもありました。夏休み中に札幌で聞かれた原爆展にも、生徒達は行っています。
 二学期がはじまり、学校祭が終った頃、二年生の一部(私が教えている)が、見学旅行の自主研修でヒロシマへ行く計画をしていることを耳にしました。門限に間にあえば、グループを組んで届け出て、どこへでも行くことができるのです。学割で往復一万五千円をこえる交通費をかけて新幹線で広島へ(京都から)行き、むこうに居る時問は四時間足らずです。グループの代表を呼び、時間を有効に、そして実りあるものにするために、事前研修を提案しました。二グループ・十数名が集まりました。プリントを使って講義をし、八月六日にNHKが放送したビデオをみました。広島平和記念資料館長の高橋さんのインタビューが心に残りました。写真集・記録・体験記など、図書館と私のもちあわせの数十冊を回し読みしました。全国からカンパを集めて建てられたばかりの“原爆瓦の碑”の話をしました。放課後三回、延べ七時間ぐらいの研修でしたが、見学旅行に行かない私にとっても充実した時間でした。ムリかもしれないけれど、高橋館長に手紙を出しておいたらと言いました。何と、館長さんは、毎日何十組とくる団体見学者の間をあけて、京都から行つた札幌の高校生を待っていてくれたのです。
 帰ってきて彼らがまとめたのが、

  “爆心地・広島を訪ねて
      見学旅行自主研レポート”

です。冒頭の文は、このレポートの一節です。焼けただれた瓦をはめこんだ“ヒロシマの碑”のまん中に、次の碑文があります。

天が まっかに 燃えたとき
わたしの からだは とかされた
ヒロシマの 叫びを ともに
世界の人よ

 彼らはこの日のことを忘れないでしょう。
 日本人に生れてよかったか、と生徒にきくと大部分の生徒は、よかったと答えます。つまりアメリカみたいに治安は悪くなく、アフリカのように飢えることもなく、共産圏と違って自由もあり ——— これが彼らのもっている常識です。戦後三十七年たって原爆症で死ぬ人があとをたたないのに、被爆者援護法もできていないことを話しました。敗戦時、関東軍が置きざりにした日本人孤児のことを話しました。アフリカの飢えを話しました。戦争の後始末もせず、奇蹟の経済成長の上にあぐらをかいて飽食しているわれわれ日本人はしあわせと言えるか、と話しました。彼らにとっては、初めてきく話ばかりだったようです。高校二年になるまで、学校でも、家庭でもきいたこともなく、そして新聞の一面を読む習慣もなくオトナになっていく受験生というのは、どういうものだろうかと思いました。

 最後の授業

 三月、転勤がきまって、教えた各クラスで最後の授業をしました。出席簿も教科書も持たないで、一時間ずつ話をしました。さすがに十五年すごこした学校でしたし、それにこの年はいろいろ思い出に残ることもあり、感慨胸にせまるものかありました。最後にこの一年の感想を書いてくれるように頼みました。二七〇名の教えた生徒の大部分が書いて後日提出してくれました。今それは、製本して私の手もとにあります。

 <生徒の感想文から>

 戦争のことについて。今までも、核戦争がはじまるとかいう考えがあるにはあったけど本心からは信じていなかったように思えます。やっぱり戦争を知らない世代だから。だから、先生のお話や、授業中に見たビデオで、戦争というものの悲惨さをはじめて認識したように思います。二度とくり返してはいけない。特に女性としての立場に立ってみると、痛切に感じます。女性の社会的地位の向上は、このことをみんなに伝えるためではないかという気がしてくるほどです。自分の夫や子どもが戦争で死ぬなどということは、ある意味では自分が死ぬよりもつらいことなのではないでしょうか。
 先生のお話しは、私を真剣に考えさせてくれました。このことは一生忘れないだろうと思います。 (M子)

 国民にとって最も大切なものは、日本の発展ではなく“心のやすらぎ”だと思います。戦争はそのすべてを破壊してしまうものです。
 原爆のフイルムを見せて下さってありがとうございます。私は以前TVで放映されても目をそらせていました。あのいたましい現実を目にするとたまらなくなるからです。でも、逃げていてはいけないことがわかりました。どんなにつらくても、目を伏せたくなるものでも、現実であるのだから、しっかりと見つめなくてはならないんですネ。そして二度とあんなことはおこってはいけないものなんですネ。 (S子)

 私は先生にいろいろなことをおそわりました。先生は、人間として、戦争をした日本人として、そんなことを話してくれました。私先生の話してくれたことはほとんど覚えています。原爆のビデオも、しっかり目をあけて見ました。私はきっと忘れません。今の学力ではとうてい無理なのですが、でも、教師になろうと思っています。私の目ざす教師は小学校教師ですが、私も先生のように、人間性や、日本人としての自覚と責任について話せたらなあと思います。 (T子)
 (彼女は今春、教育大にはいりました。今教師への道を歩んでいます。)

 私が先生の授業から学んだのは、物理だけではありませんでした。それは、他から学び得ないもの ——— 生命の尊さ、人間の愚かさ、歴史の重み、戦争の罪、そして将来の私たちに課せられた課題 ——— ひと言で言ってしまえば、ポッカリと浮き上ってしまって、見えなくなってしまいそうな多くのことを、目をそむけてしまいそうな悲惨な情景を、“頭など通さずに直接心に”伝えてくれました。十七年もの間、何も考えずにぼんやりと過ごしてきたことが悔やまれます。先生の西高の最後の授業を聞いて今、私は「これからでも遅くはない。世の中のすべて、汚い部分、醜い部分すべてを見て見て見つくしてやろう」と一大決心をしました。感激しました。『太陽の子』を読んでみようと思います。書きたいことは山ほどあるのですけれど、うまく言葉にできないことを残念に思います。たった一年でしたが、貴重なことを教えて下さって、大変感激しています。“時がたてば”式では済まされないことがあるということを教えてくれた唯一の先生です。 (S)
 (このクラスの最後の時間、灰谷健次郎の「太陽の子」のあとがき、「遺されたふたりの子どもたちへの手紙」の一節を読みました。「一つの『生』のことを考える日本人は極端に少なくなりました。今ある『生』がどれほどたくさんの『死』の果てにあるかということを教える教師も少なくなりました。それは日本人全体の堕落です」)

 最後の授業で、「日本人の生活のうらには多くの国の人々の血と涙がある」という先生の言葉には、なにかビクッとしました。日本人は本当にはずかしい民族だと思い、生活は豊かでも日本には住みたくないな……って思うことがあります。先生の授業をうけて、物理以外のお話でも、とっても興味をもってきくことができたし、政治家に都合のよい“ばかな国民”よりは少しだけかしこくなったような気がします。 (K)

 いつか物理講義室で、原爆のテレビを見たけど、あのときはショックでした。それまで広島と長崎に原爆が落ちて、一瞬にして多くの人たちが死んで、また今もその時あびた放射能の後遺症で苦しんで死んでいく人がたくさんいることは知っていました。でも実際にテレビでケロイドを見て、被爆者の人たちの声を聞いてみて、はじめて原爆の悲惨さがわかったような気がしました。今日先生が、被爆者の人たちは「原爆の被害にあってから今まで楽しい日など一日もなかった」と言っていると言いました。この三十七年間のあいだ楽しいと思ったことなど一度もない、毎日がつらい苦しい日の連続だったなんて私には考えられないことです。私にも一応悩みなんかあるけれど、少なくとも一日に一回はうれしいと思うこと、楽しいことがあるのに、三十七年間一度も生きてて楽しいと思ったことがないなんてあんまりひどすぎる。 (N子)

 思いのたけをぶつけるならば

 札幌西高は、札幌市の西の山ふところ、山の手地域にあります。通ってくる生徒の親の経済的レベルはかなり高く、日常の生活の中で貧困や世の中の矛盾を感じることは比較的少ないといえるでしょう。制服をはじめとする禁止や制限がほとんどゼロに近い高校の三年間を、自由にのびのびとすごし、そして適度に勉強して、ほとんどの生徒は大学に進学します。そしてやがて、大卒としての地位を身につけオトナになっていくとしたら、もしかしたら彼ら、彼女らは、核戦争の危機も、地球を覆っている飢えも貧困も差別もそして十五年戦争で日本がやったことも、何も知らないでしまうかも知れません。
 教育大の学長だった船山先生が、「平和教育でない教育はない」とかつて言われました。一年間100時間あまりの物理の時間のほんの何十分の一、いわば脱線をしたにすぎません。でも、世の中とかかわりなく生きているかのような現代の高校生でも、こちらが真剣に思いのたけ(もちろん教師がそれをもっていることが前提ですが)をぶっつければ、きいてもくれ、心も開いてくれるものだというのが実感です。この点について言えば、教師がやる平和運動と平和教育の“区別”もしくは“けじめ”について議論があります。教師がやることは事実を教えることまでで、それを判断してどう行動するかは生徒の側の問題だという意見です。しかし今まで自分がやってきたことをふりかえってみて、私は“区別”や“けじめ”を意識したことは一度もありませんでした。非行生徒に教師が自分の全存在をぶつけて対するのと同じように、「何のために」「どう生きるのか」を知らない生徒に、「生き方を問う」やり方は、自分の思いのたけをぶつけることしかないと思うのです。子どもではない生徒の、その芽生えかけている“自我”に対してです。生徒の感想文の中に、「自分たちに対して対等に、ほんとうのことを話してくれたのは、先生がはじめてだ」というのがありました。思いのたけをぶつけることと、「事実をそのまま教える」ことは同一ではないと思います。そして、その思いのたけをぶつければ、生徒は変るものだというのが私の実感です。日常的なことで、とりたてて“実践”などと言えるものではとてもありませんが、私自身が生徒から受けた感動をそのままにしておくのももったいない気もして、紹介することにしました。

(「北海道の平和と教育」平和教育実践記録集 vol5・6合併号
1984年11月16日掲載)

「北海道でとりくんだこと」 もくじ