介護日記

 

 2006年4月24日 古堂直哉のこと

 東京の教え子からハナミズキの便りがありました。住んでいた旧田無市のアパートの裏に多摩湖自転車道が走り、ずっとサクラ並木でした。遅いヤエザクラが咲く頃になると、近くの神代植物公園はハナミズキの季節でした。病気の進む和子を連れて毎日歩いていたので、その時々の病気の状況が花の記憶と分かちがたく結びついています。

 4月の下旬だというのに、毎日寒い日が続きます。気温も低く、風も冷たいので余計に寒く感じます。和子の枕元で、「春は名のみの 風の寒さや」と歌っています。それでも桜前線は北上してきているので、5月上旬には円山公園のサクラも咲くでしょう。和子の車椅子を押して、お花見の散歩ができるのではと思っていたのですが、褥そうの傷口がまだ開いているので、お花見には間に合いません。皮膚科のドクターや訪問ナースは、「他に例が無いほど順調」と言います。表皮の下のポケット状の空間が一方向だけになったので、2月退院時と比べると、とても順調なのでしょう。「骨まで露出して感染症で亡くなった例」も多いと聞きます。あせらないで回復を待ちます。
 血色も良く、ミキサー食の栄養も行き届いているようで、血液検査の結果も良好です。車椅子に乗れないので、訪問介護と訪問看護のサービスを受けながら、私の24時間休み無しの介護は続いています。入院中でも夜勤のナースは2〜3時間毎にしか回ってこないけれど、そばにいるので痰がからむと放ってはおけません。

 今日は感動的なエピソードを紹介します。
 ホームページの表紙の『介護日記』で始まるメニューの下の方に、『北海道でとりくんだこと』というページがあります。そこを開いていただくと『はじめに』という前書きのあとに、全部の目次があります。1992年東京に転居した年の初夏できあがった、雑文を集めた私家版の100ページほどの小冊子です。
 いつか書いたかと思いますが、編集にかかったとき和子の様子の変調がわかり、札幌西高で同僚だった奈良部健一さんのお骨折りのお陰でできたものです。私と同年の方でしたが、10年も前に病気で亡くなりました。

 この小冊子をテキスト化してホームページ上に載せようと提案してきたのが今の管理人のIですが、それとは別に西高図書局OBのYがテキスト化を手がけてくれて、二人の尽力で第T部から第V部までのテキスト化が終わり、順次ホームページに載せてきました。

 その第V部山岳部顧問記の最後に、『風人の詩—古堂直哉追悼・遺稿集への序文—』というタイトルがあります。古堂(ふるどう)直哉の3期後輩で顔を知らない管理人Iが、私とメールの交換中、古堂直哉が属していた弘前大学ワンダーフォーゲル部のホームページを見付け、ワンゲルの公式行事の中に「古堂さんのお参り」が入っていたのです。彼が遭難死したのは札幌西高を卒業して弘前大に入学した1978年で、ワンゲルに入って僅か3ヶ月の7月、沢登りの練習中の不慮の事故死でした。ワンゲルの「活動写真」に載っている「お参り」の写真は去年の7月ですから、遭難から27年の歳月がたっています。もちろん学生達が生まれる前の事故です。
 札幌のご両親に電話でお聞きしたのですが、毎年事故現場のレリーフ前に花などが供えられていて、どなたかがお参りして下さっているらしいと、不思議に思っていらしたそうです。「10年ひと昔」とか、「いまどきの学生」とかいうけれど、自分たちが生まれる前の先輩の事故死の現場に、部の公式行事として「お参り」が組まれている事に、30年も前、顧問として3年間彼と付き合ってきた私も感動しました。西高山岳部のOB・OGたちと、1周忌・3回忌・7回忌・13回忌・17回忌と現地で追悼登山をしてきたけれど、みなそれぞれ忙しくなって以後は途絶えたままです。

 古堂のことについて私が書いた山岳部顧問記3編とあわせて、全4編を今回更新してもらうことにしました。ご覧いただければ幸いです。

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