「風人の詩」(古堂直哉追悼・遺稿集の序文)


 18年ひたむきに生きた一人の青年の不慮の死から10年余の月日がたった。13回忌を前に、お父さんが彼の遺稿集を編まれるという。彼(古堂直哉)の生前のわずか3年間かかわっただけの私が、その序文をおひき受けすることになった。だがその3年間が彼の最後の3年間であり、他の人の何人分もの生を生きた(まるでその早い死を予見するかのように)もっとも充実した部分にかかわった者ということでいえば、御家族と、最後の1年半彼の前にあらわれた友人=恋人=を除けばやはり私かも知れないと思い、おうけすることにした。
 とはいえ、私と彼とのかかわりは“山での3年間”につきる。30年も高校教師をやって、その間いろいろな生徒との山でのつきあいがあった。
 山岳部顧問をしていていちばんたいへんだったのは、“安心して下級生をまかせられるリーダーをいかに見つけるか”だった。年々教師の仕事も忙しく、それに私は組合活動もあり、他の部の顧問もあり、そして私的には共稼ぎだったから家事や子育てもあった。しかも山行は言ってみればいつも死と隣りあわせだ。私が連れていけないとき(その方が多かったのだが)安心してまかせることのできるリーダー・・・その点で彼ほどの男はいなかったと今つくづく思う。
 慎重さと大胆さをあわせ持ち、後輩たちを甘やかさず、いじめず、叱ったり励ましたりしながら長丁場の山行を終えるという、おとなにもなかなかムリな役割を彼は見事にやってのけていた。それは後輩や同輩たちから、「あたたかく、思いやりのある、そして頼り甲斐のある頼もしい先輩・同輩」とうつった。それは本文中の彼らの文章にもあらわだ。弘大のワンゲルの人達が「うちのワンゲルを背負っていく筈の男だったのに」と嘆く気持ちが痛いほどわかる。
 カメラに恋し、SLに恋し、自転車に恋し、山に恋した彼は、最後に一人の女性に恋した。“生きることに恋しぬいた”彼の終結点としては当然の成り行きだったと私は思う。
 「オレにもガールフレンドができた」と歓声をあげて帰宅したという彼、その情景が手にとるようにわかる。彼女は偶然私が担任した生徒だった。彼の生前、彼らは迷ったあげく2人の間の交換日記を全部私に見せた(私に図書館でコピーをたのむためではあったが)。コピーをとりながら、大学ノート5冊にもなるこの交換日記を読んでいて、「いまどきこんなにきまじめに、生きること、世の中のことを考え、そして相手への思いやりにあふれた関係があるのだろうか」と思った。それはまさに“育てあい、高めあう関係”だったと私は思う。
 受験を目前にしながら彼らは本を読み、テレビで映画を見、それを栄養として吸収し、それを相手にすすめるということをやっている。それは、読書や映画にとどまらず、政治を語り、世相を論じあっている。私がかって部報“熊笹”第20号に書き、そしてお父さんが“あとがき”に書いているように、他の人の何十年分かを18年の間に凝縮して生ききった彼はしあわせだったと思う。そして大学受験前の一年余、いわゆる“受験生にあるまじき”ことに時間と心をついやしていた彼らの生き方を、だまって見守って下さった彼らの御両親に心から感謝したい気持ちでいっぱいである。彼らを私の手でめあわせる(私は完全にそのつもりでいた)ことはできなかったが、今彼の“生きた証し”がここにある。彼のにこやかな笑顔は10年たった今もまざまざと思い起こせる。何年も喪に服したかのようだった彼女も、臨床心理士の道を歩みはじめた。
 序文のつもりが、また私自身の彼への思いをつづることになってしまったことをお許し頂きたい。つまるところ、彼はそういう男だった。今この遺稿集ができあがって、彼を知る多くの人の心に“彼”が生きつづけることができれば彼にかかわったひとりとしてこれに過ぎるよろこびはない。

1989年1月9日

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