介護日記

 

 2004年3月28日

 前回のメールマガジンは2月8日付けでしたから、もう一ヶ月半もご無沙汰してしまいました。年末京都に住む三兄が亡くなり、年が明けたら岐阜に住む四兄の夫人が亡くなりました。彼女はもともと私たちと従姉妹で幼い頃から知っていたし、元気だったのでショックでした。高血圧だったとは聞いていたけれど、心臓大動脈解離が起きて、あっけない最後でした。まだ70歳でした。
 そんなこともあって、インターネットをやらない方に出す筈だった転居通知と喪中の挨拶も出しそびれ、年始に頂いた年賀状への返事も出さないまま、日が経ちました。もう4月ですし、いくらなんでも旧住所宛の年賀状には早く返事を出さないと、私たちは行方不明になってしまします。去年の返事は病院通いの2ヶ月の間に書きましたが、在宅介護はやることが多く、なかなかはかどりません。

 さて、ここ札幌の円山も、やっと春のきざしが見えてきました。冬の4ヶ月間車椅子を押して外に出られなかったので、とりわけ長く感じられた冬でした。24時間和子と一緒に過ごす冬は数年ぶりでした。雪に閉じこめられる閉塞感はあるものの、常時和子と一緒にいる安心感も数年ぶりです。
 歩道は融けた雪が氷になって残っているし、風も冷たいので、まだ車椅子散歩は控えています。インフルエンザのワクチンは打ったけれど、和子は風邪もひかず元気で冬を越しました。間もなく和子を連れて車道の「行進」もできるでしょう。

 この2月からこのマンションの2階でデイサービスが始まりました。和子は火・木の週2回利用しています。そして、そこでナースから嚥下訓練を受けています。私はその間用足しに出かけたり、たまった用事を片づけたり、短い昼寝をして寝不足を解消したりしています。

 和子が、いろいろなことがあった末、自分の口から食事を摂れなくなったのは一昨年の暮れです。
 様子がおかしいと気付いたのは、毎日ホームに通っていた私でした。歩いても斜めになったり、目が一方向につり上がったように見えました。担当の若い主任ケアワーカーもおかしいと気付いたらしく、直ぐに札幌の教え子の女医に連絡して病院に連れて行きました。玄関ロビーまで出迎えてくれた女医は、和子を見るなり「和子さん変です」と言いました。CT室に私もプロテクターを付けて入り、頭の方から和子を支えました。撮影が終わると女医がすぐCTの部屋に入ってきて、「後藤先生の“読み”は正しい。慢性脳硬膜下血腫です。和子さん可哀想に」と言いました。脳の頭蓋の内側全体にずっと血が溜まっているCTの画像を見ました。ホームの医師もナースも全く気付いていませんでした。

 自宅から遠くても困るので、小樽の脳外科に連絡を取ってもらって、すぐ車で連れて行きました。担当の脳外科の医師は「硬膜下血腫の手術は脳外科の手術の中ではいちばん簡単な手術です。脳に他に障害が無い人は手術後1週間で抜糸をしてすぐ社会復帰します。奥さんの場合は血腫を取り除いても、内部の脳にどんな影響がでてくるか、何とも言えせんが」と言いました。金曜日の午後だったので、ICUで内科的な治療をして変化が無ければ月曜日に手術をする、と告げられました。そして週明けの月曜日に手術をして、血腫はきれいに除かれました。要するに頭蓋骨に穴を開けてポンプで血を吸い出す手術です。脳の内部をいじるわけでないので、簡単な手術でそれ自体の後遺症もないということも納得できました。

 月曜日に手術が無事終わり、ICUで2日過ごした後一般病室に移りました。それから退院までの数日間、毎日私が行って夕食を食べさせました。「刻み食にしましょうか」と婦長に聞かれましたが、口に入れて咀嚼すれば同じ事なので、普通食にしてもらって、ゆっくり食べさせました。みそ汁だけ誤嚥予防のとろみが付けられていました。面会時間外の朝食と昼食は病院のナースが食べさせてくれました。1週間経って経過は順調だったので、抜糸をして退院が決まりました。このあとは一切来なくてもいいと言われました。抜糸と言っても、ホッチキスのステップル(金属)のようなもので止めてあるのを外すだけで、いまどきの外科手術に驚きまた。
 ホームに連絡して迎えの車で退院して、夕食は入院前と同じように私の付き添い食も頼んで、同じ物を一緒に食べさせました。夜8時過ぎ、入院前と同じようにパジャマに着替えさせ、ベッドに入れて私は帰りました。病院で車椅子で院内を散歩し、少し立つ練習もしたので、パジャマに着替えるときも自分の足で立てたし、脳の内部の障害が今後どう現れるかは別にして、今回の事件は一過性のアクシデントで終わるかも知れないと思いました。

 異変は翌朝起きたようです。私が自分の主治医の病院に定期受診に行っている間にホームから自宅に留守電が入っていました。
 すぐかけつけると、朝から飲み物も食べ物も一切受け付けず、部屋で寝かされて点滴のチューブにつながれていました。痰の吸引機も置いてありました。ホームの嘱託のドクターに呼ばれ、誤嚥性肺炎の疑いもあり、すぐ入院先を探すように言われました。検査をした札幌の病院や、私がかかっている病院を当たったのですが、空きベッドが無く、結局ホームと同系列の300床を越す療養型ベッドを持っている病院の、十数ベッドだけある一般病棟に入院しました。金曜日の午前中でしたが、主治医の若い医師から、「しばらくこの点滴を続けて、嚥下障害が直らなければ、次は肩の所の太い静脈から中心静脈栄養をいれることになりますね」と言われました。先がどうなるか判らないので覚悟を決めて、ずっと夜まで付き添っていたのですが、和子は表情が全く無く天井を向いたままで、時々ナースが来て、脈と熱と血圧のヴァイタルサインを点検して、数時間ごとに助手さんという人が2人きて、枕を使って褥そう予防の為という体位交換をしていました。点滴は生理食塩水に朝晩抗生剤を加えていたようです。和子は脳外科から戻ったときも少しは歩けたのだし、一夜にして寝たきりにされてしまいました。「寝たきり病人は作られるのだ」ということを実体験しました。

 翌日は土曜日で私は午前中から夜までずっと付き添っていたのですが、主任ナースも医師も顔を見せず、次の日の日曜日もそうでした。金曜から日曜まで、和子は丸太のように天井を向けて寝かされているだけで、治療を受けているという実感が全くなく、このままでは和子は駄目になってしまうという恐怖感を持ちました。日曜日の夕方でしたが、札幌の教え子の女医に電話をして、彼女が院長に相談してくれて、翌月曜日の朝札幌の病院に転院できることになりました。日曜日の夜、当直のナースに話したので主任ナースが朝早く顔を出してくれて、心配そうに「私どもに何か手落ちがあったのでしょうか」と聞かれたけれど、緊急入院した新患が、土・日と全く医師の手当を受けず、点滴とヴァイタルサインのチェックと体位交換(現場では体交と言っていました)だけで金〜月の4日間過ごした不安は説明できませんでした。【手落ち】というよりは、この病院の医療の質だったのでしょう。「いえ、教え子の医師がいる病院のベッドが空いたので」と答えました。頼んでいたストレッチャーのまま乗せるタクシーを待っていたのですが、その間にここの病院車を出す話が進んでいたらしく、主任ナースから「病院の車で私も付き添いますので、申し訳ありませんがタクシーを断ってください」と言われました。急なキャンセルだったのでタクシー会社からは怒られましたが、小樽から札幌の白石区までのタクシー料金は払わないで済みました。

 小樽から札幌へ高速道路を使ったのですが、和子はストレッチャーの上で、窓から見える建物や晴れた空に浮かぶ景色の移り変わりを珍しそうにキョロキョロ見ていました。天井しか見えない病院の4日間は目も動かさなかったので、その違いがとても印象に残ったのを覚えています。金曜日の初診時に1度だけ顔を見せた医師は、転院先の病院への手紙(医療情報)は書いてくれて婦長に託したようだけど、私たちの前に顔は見せませんでした。

 転院してからのことは、1年前の『介護日記』に詳しく書きました。転院のいきさつについては、はっきり書かなかったけれど、1年余り経ったのでもう時効だと思うし、医療事故頻発の昨今でもあり、少し書いてみたくなりました。事故はなかったけれど、医療(治療)が存在したとはとても思えない4日間でした。同じ階の病室のすぐ先が、「療養型病棟」なので、一般用のベッドとはいえ、もともとの老人病院のやり方がやられていたのかも知れません。療養型は医療費が定額で抑えられているので、治療をすればするほど病院経営が赤字になる、という話を前から聞いていました。それにしても、あのまま居たら和子はどうなっていただろうと、恐怖感さえ覚えます。

 東京都の教育委員会が、卒業式に起立して君が代斉唱をしなかった教師たち200人を戒告処分にするというニュースが報じられています。独裁国家ならいざ知らず、民主国家と言われる国で、個人の思想・信条にかかわることで、教師が処分されることなどあるのかと驚きます。おまけに歌わなかった教師を特定するために教育委員会の職員を各校に派遣し、報道陣を締め出すなど、あきれる映像がテレビに流れました。
 次の号で私の日の丸・君が代論を書くつもりですが、私が現職だったとしても絶対に歌いません。憲法と教育基本法を守ることを誓って教師になったのだから、そんなことをやったら教えた生徒たちに顔向けができません。

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