介護日記

 

 2002年12月31日

 年末のご挨拶と近況報告です。

 和子は12月9日から、教え子の女医Mが勤める札幌の病院に入院しています。急性期指定の内科病院で、平均入院日数20日未満という病院ですが、和子はここで越年します。私は小樽築港駅から札幌のひとつ向こうの苗穂駅まで定期券を買って毎日JRで通っています。

 11月の末、毎年ここで受けている胃カメラと腹部CTなどの年1回の検診に行ったのですが、その少し前から和子の歩行状態が変だったので、頭部CTも依頼しました。少し遅れて着いた私たちを待っていた医師は、和子を見るなり「先生、変です」と言って、すぐCT室に連れて行きました。和子の目つきも変だったのです。例年のように私もプロテクターを着けて、和子を頭の方から支えたのですが、撮影が終わると医師が直ぐCT室に入ってきて、「先生、慢性硬膜下血腫です」と言いました。入院手術が必要なので小樽の脳神経外科を探して、すぐそこに運びました。ちょうど取材に来ていたHBCの記者が運転を代わってくれました。私は後部座席で和子を支えました。
 小樽の脳外科で診察を受け、そのまま入院になりました。週末金曜日の午後だったので、連休明けの月曜日まで「点滴・服薬による保存療法を試みる」ということで、ICUのベッドに入りました。週明け月曜日の朝のCTも変化は無く、午後手術をしました。手術後のCTでは血腫はきれいに取り除かれていました。「再出血が無ければ1週間後に抜糸です」とドクターから言われました。
 手術後2日ほどでICUから病室に移り、毎日私が夕食を食べさせました。入院直後から痰が喉にからんで吸引してもらっていたのですが、この数年間の和子の2度の入院時にはなかったことでした。食事の時に出る味噌汁は誤嚥を防ぐための"とろみ"付きで主食はお粥でしたが、副食は普通食を食べました。咀嚼機能は入院前と同じで、問題はありませんでした。
 1週間後のCT検査の結果も良好で、まだ体のバランスは回復していなかったけれど、脳外科としての処置は終わり、入院13日目にホームからのお迎えの車で退院しました。その日の夕食は以前と同様に私が食べさせ、眠剤も飲ませて家に帰りました。
 翌日午後ホームの医師から電話が入り(私は自分の通院で留守だったのですが)、ホームに出向くと和子は重病人のようでした。朝から飲み物も食事も受け付けず、ずっと点滴でした。医師は「白血球値が10500、カリウム値が2.9で、誤嚥による肺炎の疑いもあり、ホームでは治療は無理なので入院を」と言われました。入院先を探して、いろいろいきさつがあったのですが、翌日ホームの関連法人がやっている近くの病院に入院しました。その日と翌日、夜中に私の胸の強いアタックがあり、和子の小樽での入院治療に不安があったので、4日後札幌の教え子の病院に転院しました。札幌ならサポーターの何人かが来てくれるので安心です。
 和子は腕の静脈からの点滴と、嚥下リハビリや手足のストレッチを毎日やってもらって、血色もよくなり表情も出てきました。でもまだ点滴だけで生きています。口から入れるのは1日1回嚥下リハビリとして食べるゼリーかプリンの小さいカップ1個だけです。
 先週、ナースが「和子さん、半盲じゃないかしら」と言いました。その時見舞いに来てくれていた「学童」の仲間のHさんも「和子さん、見えてないんじゃない?」と言うし、7年前に手術した網膜剥離の再発の可能性もあり、医師と相談して翌日病院車で眼科に搬送してもらって眼底検査を受けました。結果は網膜に異常はなくてホッとしたのですが、眼科医は、「アルツハイマー病が進行すると、見えていても認識できないのでは、という所見が近頃眼科医の中にも出始め・・」と言いました。でもまだ何もわからない領域のようです。「半盲」という現象は、「視野が半分欠けている」という患者の訴えでわかるのだそうですが、自らの状態を語る術を失った和子のことは、こちらで想像してひとつずつクリアするしかありません。でも網膜に異常がないとわかりました。ひとつ安心ができました。

 和子はこの病院の本院の外科で年明けの6日、胃瘻(いろう)造設の手術を受けます。胃の部分に器具を装着して外部から栄養を入れて「経腸栄養による体力の回復を図る」ことになります。僅か1ヶ月余りの間に起きためまぐるしい出来事に、納得できないままで過ぎました。どうして急激な嚥下障害が起きたのか、私にはわからないままですが、いま最良の治療の場を得て、次のステップへと準備中です。和子のこともよく知って下さっている小樽の私の主治医が言われました。「今まで微妙なバランスで来られたわけですから、何かが起きるとたいへんですよね」と。大脳の萎縮が強度に進んで脳室も拡大し、大脳皮質全体が薄くなってきていることを考えると、起きてにこやかに笑顔をふりまいていたことが不思議なのかも知れません。
 でも耳元でモーツアルトを聴いて少し頬がゆるむ和子をみると、やはり生命の輝きを感じます。ドクターの勧めで、和子のベッドを起こしたとき目に入る正面の壁に、美術展の絵のポスターを貼りました。ワシントン国立美術館東京展の時買った大きなポスターで、1枚はモネ「日傘と女性:モネ夫人と息子」、もう1枚はルノアール「髪を編む若い女性」です。一昨日訪ねてくれた東京の教え子は、卒業以来20年ぶりに会ったのですが、「和子さんは印象派がお好きなのですか」と聞きました。ロンドン・パリ・ニューヨーク・イタリアもスペインも、そして日本の美術展も、古代から現代までたくさんの美術を見たけれど、ふたりとも印象派は好きでした。小樽の家の壁にはその他に、仏様の写真が何枚も貼ってあります。興福寺国宝館の阿修羅像もあります。混乱期のさなかにあった和子を連れて、仏様のまえでひたすら祈ったこともありました。
 その教え子が、一昨日私が席を外した時のことを教えてくれました。モーツアルトのピアノ協奏曲全集のCDをかけていたのですが、「この2番目のトラックの曲がお好きそうですよ。表情が変わりましたから」と。「戴冠式」と名付けられた、和子の大好きな曲の第2楽章でした。モーツアルトが書いた27曲のピアノ協奏曲のうち26番目の曲です。亡くなる3年前の、経済的に急迫して返すあてのない借金を重ね、そんな中で書いたニ長調のこの曲の明るさ。「モーツアルトは神様の申し子」とは誰が言ったのか、彼の没後260年余り経って、重度の和子は、モーツアルトの音楽から生きるエネルギーをもらっています。
 大晦日の晩はモーツアルトを聴いて一緒に過ごしましょう。

 先が見えないままで、日本も世界も2003年を迎えそうですが、私たちも元気で生きようと思います。皆さんも、どうぞお元気で、よいお年を!

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