介護日記

 

 2003年1月7日

 あけまして、おめでとうございます。
大晦日も元日も、私たちは病院でモーツアルトを聴きながら過ごしました。例年小樽に訪ねてくれる教え子たちには、札幌の病院にきてもらいました。和子はいつものような笑顔は無かったけれど、それでも目をパッチリ開いてこちらを見て、何か言いたげでもありました。肌のつやも血色も良く、あまり病人のようには見えません。点滴で体力も回復してきたのでしょう。

 そして年明けの昨日6日、病院の車で4キロほど離れた本院に運ばれて、無事手術を受けました。前夜から強い寒気が入り、思い切り風雪が吹き荒れてました。JRも軒並み遅れたり運休になったりで、ちょっとたいへんな2日間でした。私は小樽からやっと間に合いました。和子はそこのICUで1泊して、今日もとの病院に戻りました。これからゆっくり時間をかけて、「経腸栄養による体力の回復を図る」ことになります。胃袋は1ヶ月余り用をなしていなかったので、栄養剤がカテーテルを通して順調に胃袋で消化されるのに、やはり1ヶ月ぐらいかかるそうです。

 例年のようにたくさんの年賀状をいただきました。いくらインターネットの時代でも、やはり書いた人の息づかいが聞こえる肉筆の年賀状は捨てがたいです。国文学者の寿岳章子氏が朝日新聞に、年賀状廃止宣言のようなことを書いていました。人それぞれ価値観が違うから、それはいいのだけれど、新聞に書くようなことでもないのに、と思ったりしました。
 お正月はとっくに終わったけれど、毎日寝に帰るような生活だったので、これから、頂いた年賀状に返事を書きます。ついでながら、インターネット業者の既成のものを使ったインターネット年賀状はいただけません。本人の肉声はもちろん伝わって来ないし、「返信はこちらをクリック」などと返事を業者から促せられるのは、正直「気色わるい」ので読みません。わたしが昭和ヒトケタの故か、自分で書かないのならやめた方がいいのでは、などと思ってしまいます。

 何年も前ですが、和子が字を書けなくなりました。絵本の大きい字も読めなくなり、得意だった縫い物も編み物もできなくなりました。ほんの数ヶ月の間のことで、そういうのを医者や専門家は「人格の崩壊」などと書くのかも知れないとは思いました。でも私は和子が持っていた、自分で努力して身につけてきた"貯金"が全部無くなってしまったとは思えなかったので、抱きしめて嵐が過ぎるのを待ちました。でもその時、和子がヤマハで同僚だった方で文通していた方たちに、私が「字が書けなくなったので」と病気のことをお知らせした年賀状に、どなたからもお便りを頂けなかったことが忘れられません。「こんなふうにこの病気の患者は、世間から痕跡を消されていくのか」とさえ思ったものでした。
 その後教え子の精神科医と出会い、和子は安定と明るさを取り戻しました。もちろん病気が良くなったわけではないので、失った能力が回復したわけではありません。でも音楽だけは残り、今も彼女の中に生きています。
 去年の12月初め、読売新聞小樽支局の若い記者から電話があり、「その後の和子と私」のことを話しました。彼は4月に私たちのことを記事に書いてくれました。『記者ノート 2002』という、地方局の記者が書く年末の連載企画に、「僕は後藤さんご夫妻のことを書きたい」ということでした。12月18日付けの道内版にそれが載り、掲載紙が送られてきました。5段組のカラーページで、上部横書きの見出しに「アルツハイマーの妻 10年看病する夫」、そして真ん中に大活字の縦書き見出しで「音楽だけは残った」、そしてカラーのイラストが脳をバックに私たち2人が白抜きで、脳の中で音符が踊っていました。一見びっくりしたけれど、「音楽だけは残った」のが見事にイラスト化されて、印象に残りました。最後の部分に、「私事ながら」と9月に結婚したこと、私が「共通の趣味、というより生きがいみたいなものがあるといい」と電話で話したことを書き、「(自分達も)後藤さん夫婦のようになれる要素が少しはあるかな、と思う」と結んでいました。
 和子はこんなふうに書かれることを照れくさく思うだろうけれど、私は思いがけない年末のプレゼントをもらったような気分でした。

 年末年始の強烈な寒波も明日から緩むようです。大寒はまだ2週間も先だけど、何と言っても日が長くなりました。冬も半分過ぎました。

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