介護日記

 

 2002年11月15日

 北海道は例年より1ヶ月早く冬が来ました。幌加内(ほろかない)町は積雪76センチで例年の4倍だとか。北海道の上空を通過中の寒気団は、真冬並みの氷点下40度以下です。「異常気象で1年が過ぎた」というのが私の実感です。東太平洋のエルニーニョ発生は確実らしく、局地的には寒くても地球温暖化の勢いは止まりません。「オゾンホール 今年は短命」という新聞トップの記事で喜びかけたら「成層圏の温度急上昇が原因」という学者の解説で、喜んではいられないと判りました。われわれが住む地球は一体どうなっていくんだろうと、本当に私は心配です。
 例年ならば、黄色くなったカラマツ林がきれいな季節で、秋が短い北海道の、その「ゆく秋」を楽しんでいる筈でした。ダム湖園地のスロープは雪に覆われているので、和子を連れて出かけられません。マンションの駐車場に早々とブルが入りました。

 早く冬が来たので胸のアタックも時々あり、ニトロのスプレーを使ったりしています。ニトロテープを張るといいのだけれど、私の皮膚はアレルギーで痒くなるので、あまり使えません。贅沢なくらい部屋を暖めて、無事に過ごしています。

 和子は今月満66歳になります。7月に個室に移って落ち着いたのでしょう。CDラジカセを連続演奏モードにしてもらい、毎日日替わりで、前の晩私が選んだクラシックのCDを聴いています。ここ何日かは、イングリッド・ヘブラーとロンドン交響楽団演奏の、モーツアルトのピアノ協奏曲全集のCDを続けて聴いています。このCDは、1991年モーツアルト没後200年の年に発売されたものです。

 3時か4時には私が行って、和子を支えながら館内を歩き、皆さんに笑顔をふりまき、声をあげて笑います。10歳年上の先輩の方が、「いい笑顔だねえ、女の私から見ても惚れ惚れするよ」と言われました。

 「和子さんは良くなっているのでは」と、皆さんに言われます。病気は確実に進んでいるのに、症状は良くなっています。「アルツハイマー病の行きつく先は人格崩壊だ、寝たきりだ」などと言ったり書いたりしてきた専門家たちは、「いのち」が持っている可能性を知らないのだと、この頃しきりに思います。私は和子を通して、その「いのちの輝き」との出会いをさせてもらっているのでしょう。

 2000年4月に介護保険制度が始まって今年で3年目です。12月末に和子の4回目の認定審査があります。和子は1回目から「要介護5」だったし、病気は少しずつ進行して、自分で出来ることは何も無くなっているから、今回も「要介護5」でしょう。150名定員のこのホームの、他の「要介護5」の方22名は全員寝たきりで、食事も流動食だそうです。和子の年齢が飛び抜けて若いこともあるけれど、自分の足で歩いて普通食を食べている「要介護5」の和子は、確かに特異な存在でしょう。でも今のところ損傷を受けているのは大脳と海馬の部分だけで小脳はまだ大丈夫のようなので、「自分の足で歩いて、丈夫な歯で普通食を食べる」のは理屈には適っています。

 私の本『和子 アルツハイマー病の妻と生きる』が出たあと忙しい年でしたが、新しい出会いがたくさんありました。見知らぬ読者からのメールや、出版社を経由してのお便りもきました。卒業以来コンタクトが無かった和子や私の教え子や、教えなかった(廊下ですれ違っていた)卒業生とも、新しい出会いがありました。
 和子の美唄時代の教え子や、ヤマハ時代の同僚の方が訪ねてくれました。病気のことをお伝えしたら音信を断った方もいるけれど、私の知らなかった和子の交友関係や教え子との心のふれ合いが少しずつ見えてきて、うれしい年でした。
 幾つかの施設や自治体の介護教室から招かれて話しに行きました。「私のつたない話より実物を」と思って、和子を連れて行きました。
 最後に依頼されたのがuhb大学という、札幌の民放テレビ局がやっている高齢者向けの生涯学習講座でした。中規模ホールの舞台から、同世代の400人を超える受講者たちに話をするのは勿論初めての経験でしたが、「皆さん、避けてはいられない切実な問題ですから」という大学側の意向に納得したので、お引き受けしました。その日は勿論私だけJRで行きました。
 事前に送られてきた去年の年間スケジュール表で驚いたのは、年間40回ものスケジュールがあることでした。平均70歳という、私と同世代の方たちの、年間ほとんど毎週受講という勤勉さも驚きでした。途中休憩の間に伺ったのですが、若い時代勉強らしいものが出来なかった方たちが、いま向学心を燃やして毎週集まって来られるという話に感動しました。私は旧制工業学校から新制工業高校に横滑りして、戦後の一時期電話局の労働者だったけれど、電話局の先輩たちは、戦時中の小学校しか出ていない人が多く、私たちも選ばれた部分だったと、半世紀以上前のことを思い出しました。自分の意識のどこかで「苦労した」という思いも少しだけあったのですが、もっとずっと苦労した方たちが多かったと改めて再認識しました。

 今年はヴィクトル・ユゴーの生誕200年の記念の年です。40年前、私たちが出会って半年ぐらい経った頃、和子が私にくれた手紙の一節に、ユゴーの『レ・ミゼラブル』に触れた一節がありました。

 小学校の3年の時、レ・ミゼラブルのお話をしてくれた先生が居ました。その先生を尊敬しました。先生はこの小説の題をジャン・バルジャンと教えました。私はジャン・バルジャンは主人公の名で、題はレ・ミゼラブル、邦訳で“ああ無情”だと何気なく言いました。その結果私は、知った振りをする生意気な悪い子にされ、尊敬した先生に机から突き飛ばされて転ばされ、夕方にも帰してもらえませんでした。インテリでない人をおそろしく思い、何も知らないようにしなければと、その時感じました。

 和子が、どうして私に『レ・ミゼラブル』のことを書いてきたのか、今はもう尋ねることもできないけれど、私も『レ・ミゼラブル』や、『ノートルダム・ド・パリ』は愛読書だったので、彼女の思いに共感しました。同時に教師という職業のそら恐ろしさを実感しました。生徒の心に傷を残すという行為を、権威をかさに、いとも簡単にやってしまう職業だということを思い知らされ、自戒したことでもありました。

 私が教師を辞めた2年後の1990年、札幌でやった東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』を和子と一緒に見に行きました。ロンドンからプロデューサーがやってきて、俳優は多分オーデイションで選んだのだと思うけれど、野口五郎のマリウス、島田歌穂のエポニーヌが記憶に残っています。
 東京で和子の病気が判ったのがその2年後の12月です。翌年4月ロンドン・パリにフリーの旅をして、パリで教え子のJALの飛行士と不思議な出会いをしました。彼が便宜を図ってくれてニューヨークに行ったのが11月、木々が黄色く色付いたセントラルパークではニューヨーク・マラソンの参加者たちが練習をしていました。
 彼と一緒にメトロポリタン・オペラの『魔笛』と『ラ・ボエーム』を2晩続けて見て、翌日彼がフライトで帰った夜からブロードウェイ・ミュージカルの『オペラ座の怪人』と『レ・ミゼラブル』を2日続けて見ました。4日連続の音楽三昧のニューヨークでした。
 札幌で見た『レ・ミゼラブル』の野口五郎や島田歌穂の熱演も忘れ難かったけれど、本場のはやはり違いました。和子は隣で涙を流していたようでした。座席数500ぐらいの中劇場で何年ロングランをやっていたのでしょうか。フランスの社会悪の告発と愛と献身の物語を、革命から王政復古への激動の時代を背景に描ききった原作の、感動的な舞台を忘れません。
 和子がいま病気でなかったら、「ユゴーの生誕200年なのに、どうして何もないの?」と聞くかも知れません。東京では講演会やシンポジュウムがあったのかも知れないけれど、新聞やブラウン管を通して目に入るニュースは、全く先の見えないニュースばかりです。

 何年も書き続けてきた『介護日記』が本になったので、毎年末に作っていた年刊のテキスト版はもうやめようかと思っていたのですが、5月なかば「応援団希望」というメールをくれた教え子が、ホームページの関東ミラーサイトを作ってくれて、おまけに「インターネットをやらない読者向けのはやはり作った方がいいでしょう」と言ってくれました。

 そんなわけで、年末にはまだ早いけれど、テキスト版のこともあって、一応メールマガジンは14号で区切りにします。年内メールマガジンはまだ書くつもりですが、これから書く分のテキスト化は1年後の予定です。

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