介護日記

 

 2002年10月20日

 昨日ダム湖に行ったら、ダム下の電光掲示板の気温は8度でした。稚内など平野部でも雪が降りました。朝の小樽の最低気温は4度でした。昨夜は暖房をしっかり入れてやすみました。今日は快晴ですが、気温は11月中旬並みだとか。春からずっと異常気象と言われ続けて、冬も足早にやってきそうです。

 10月初め、台風21号が途方もないスピードで日本列島を通り抜けて行きました。南の海上で発生した頃の中心付近の気圧が945hPaという目を剥くような数字にびっくりしていたら、そんなに衰えないまま日本列島を縦断していきました。このあたりも強風が吹き荒れました。茨城県でしたか、高圧線の鉄塔がアメ細工のようにひんまがったり、東京の真ん中で家が1軒吹っ飛んだり、人命に大きな被害がでなかったのが奇蹟にも思えます。やっぱり今年の気候は大異変です。

 釧路で獲れた新鮮なサンマを買いました。3枚におろして皮をひいて刺身を作りました。ショウガとキザミネギをつけてホームに運び、和子と食べました。口に入れてやると目を細めて食べます、「おいしい?」と聞くと、「うん」と答えます。こんな会話は全く普通です。ホームでは生の魚は出ないので、私が時々運びます。これで3回サンマの刺身を運びました。
 「秋刀魚、秋刀魚、・・・」と詠ったのは白秋でしたか。小津安二郎の映画に「秋刀魚の味」というのがありました。笠智衆の渋い演技が記憶に残ります。でも白秋も小津安二郎もサンマのお刺身は食べられなかったでしょう。
 落語の「目黒の秋刀魚」に出てくる将軍は、雨宿りした民家で出されたサンマの塩焼きの味が忘れられなかったという話だから可笑しくなります。江戸の庶民が食べていたサンマの鮮度が良かった筈もないのに、それでも将軍はその味が忘れられなかったという話だから。北海道に住む吾々は幸せです。流通事情が昔から比べると比較にならないほど良くなった今だから、釧路から数百キロはなれた小樽に、こんな活きのいいサンマが届きます。

 私が書いた本が出版された今年はとても忙しくて、毎年恒例の季節の料理も手抜きをしました。和子は病気になる前は、忙しくても季節の料理を欠かしませんでした。私も子どもの頃から母親に仕込まれていたから、一緒にあれこれ作りました。この10年は私がそれをひとりでやっていたのですが、今年はタケノコを買いませんでした。恒例のタケノコご飯・若竹煮・若竹汁も今年は省略しました。毎年本州産の孟宗竹のタケノコを1本まるごと買って米糠を入れて茹でました。水煮になったタケノコでは、春の香りは味わえません。
 和子が会話ができたら、「タケノコはまーだ?」と聞かれそうです。栗ご飯も炊かないままシーズンが過ぎてしまいました。レトルトの不自然に甘く煮た栗は使う気がしません。

 和子はホームで毎朝食パンを出して貰って食べています。紅茶のティーバッグとバターとジャムは家から持って行きます。小樽は果物の産地の仁木町・共和村や余市町に近く、新鮮な果物が安く買えます。忙しかったけれど、ジャムだけは全部手作りしています。イチゴ、サクランボは近くの農家から規格外のものを毎年分けてもらいます。ジャムを作るのにはそれで充分です。そのあとプルーン、アンズ、パートレット、ブドウのジャムを作りました。ニュージーランド産のキウイは1年中買えるので、端境期に使えます。果物はペクチンを含んでいるから、それでちゃんと固まります。売っているジャムはどうしてペクチンをわざわざ添加しているのか、多分増量のためでしょう。その他に酸味料とか、不自然な添加物が多すぎて買う気がしません。

 2月末に本が出て、「本は一人歩きしますから覚悟して」と言われました。実感が無くて、あまり覚悟はしていなかったのですが、言われたとおりになりました。見知らぬ人や、卒業以来文通もなかった教え子からメールがたくさん飛び込んできました。関東ミラーサイトを作ってくれている教え子Iも、3年生の時授業を持っただけで、その後文通はありませんでした。「応援団希望」と突然メールがきた時は感動しました。

 以下、9月にメールマガジンの号外に書いた一部を加筆して再録します。これはホームページには載せていません。

 【教師生活最後の年の授業で、理科Iという授業枠の中で、「地球」を取りあげました。退職したあとで作った『北海道でとりくんだこと』という100ページほどの小冊子に、この授業のレポートを載せました。
 実践記録:「地球があぶない〜高校理科で地球と人類の未来を考える」というレポートです】

 この『北海道でとりくんだこと』という小冊子は、ちょうど10年前の初夏、教え子達に読んでもらいたいと思って、私家版として250冊作りました。教師をやっていた間にあちこちに書いてきた雑文をまとめただけなのですが、編集の途中で私たちは東京に転居し、最終校正にかかる頃和子の異変に気づき、最初から出版にご尽力いただいた札幌西高時代の同僚だった畏友・奈良部健一さんに全部お任せしました。
 最初にこれを作るように強く勧めてくれた浦河高校時代の教え子Sは、私たちが小樽に終の住処を決めて戻ってきた年の夏、癌の再発で養護教諭現職のまま亡くなりました。私の一回り年下だから52歳でした。「S子があぶない」という知らせを受けて、和子も一緒に親友たちと帯広の病院に見舞いに行きました。別れるとき、「先生、私まだ死にたくない」と言って涙を流した、その1週間後の死でした。私たちが結婚した頃彼女は札幌の看護学生で、家に何度も遊びにきていました。子どもが生まれた時は手伝ってもらったし、就職して地方に行くまでの数年間、足繁くわが家に出入りしていました。葬式に行った後1年以上彼女を思い出さない日はなく、和子がその私を見て「S子ちゃん、死んじゃったんだね」と、私と一緒に悲しんでくれたのも、後から思えば不思議なことでした。新しい記憶が全く駄目になった彼女が、そのことは覚えていたのです。
 そして翌年、小冊子を作ってくれた奈良部健一さんも亡くなりました。私と同年の65歳でした。和子とお通夜に行き、奥様に「奈良部さんのおかげでこの本ができました」と申し上げました。
 10年前に作った250冊は既に残部が無くなり、その後出会った教え子達にも読んでほしくて、数年前100冊オフセットで増刷しました。それを渡した西高29期の図書局OBのYが少し前からこの本のテキスト化にとりくんでくれていて、先頃その中の一編の「地球があぶない〜高校理科で地球と人類の未来を考える」をメールで送ってくれました。
 そして今回、ホームページのミラーサイトの管理人Iが、ホームページの新メニュー『北海道でとりくんだこと』 を追加してくれました。ホームページのトップページにそれが載り、「まえがき」と目次の全文が載りました。そこからでも、8月15日付けの本文からでも、リンクで「地球があぶない〜高校理科で地球と人類の未来を考える」がご覧になれます。

 灰谷健次郎が『太陽の子』のあとがきに、「今ある『生』がどれほどたくさんの『死』の果てにあるか・・・」と書いたことを、何度も思い出しながら和子の『生』と向き合って生きてきた10年だったと改めて思います。
 半世紀も前の学生時代読んだ『きけ わだつみのこえ〜日本戦没学生の手記〜』(1949年)に、フランス文学者の渡辺一夫が「感想」というまえがきを書いています。そのなかで彼は、大戦下のフランスの詩人ジャン・タルジューの短詩を引用しています。その冒頭の部分、「死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」という詩句を私は今も時々思い出します。
 『太陽の子』も、このタルジューの短詩も、戦争による理不尽な死を書いているのだけれど、突如襲ってくる治療法のない病気も、理不尽ではあります。

 5月の半ば、札幌西高19期OBの医師が施設長をしている老健(介護老人保健施設)から講演の依頼がありました。講演など自信はなかったけれど、「和子さんも来ていただけるのなら、迎えの車を出します」とメールが来て、千歳市の隣の恵庭市に出かけました。家族やスタッフ50人ぐらいの前で話をしました。そのあと札幌の別の老健から依頼があったときは、サポーターを頼んで和子を連れて出かけました。3回目が美瑛町の介護教室でした。

 先週12日の『高齢者の心の病を考える会』はもちろん和子を連れて行きました。72名定員の中研修室の定数を超える参加者があって椅子を追加しました。予定通り私が最初に「アルツハイマー病の妻と生きて」というタイトルで30分話しました。車椅子の和子を横に置いて話すのだから、はたから見ると少し妙な形ではあるけれど、今はもうそんな形が普通になりました。
 彼女は「和子さん」と呼ばれた時は「はい」と返事をするけれど、私が「和子は・・」と3人称で話しているときは返事はしません。重度ではあるけれど、そんな認識はあります。そして長い時間でなければ笑顔を絶やしません。 2時間の大半は、寄せられた質問にも一部答える形で白潟医師が講演し、そのあと質疑応答もあったけれど、病気で悩んでいる患者や家族が置かれている深刻な状況と、それに対応する医療機関や施設がほとんど存在しないという北海道の状況が浮き彫りにされました。
 私たちがこの10年間追い続けてきた「患者の側が医師を選ぶ」という大きななテーマも、幸運だった私たちは例外にクリアできました。治療の手だてが無くて、本人と家族や施設の職員たちが途方にくれている状況も、寄せられた質問から明らかにされました。それらの解決が全部「これからの課題」というには、事態は深刻すぎるけれど、白潟医師は福島に帰っても、寄せられた個々の質問や相談に答えると言っています。

 今年の私の仕事がもう一つあります。22日、uhb大学という地元の民放局がやっている高齢者向けの生涯学習講座で、450人の方たちに、「アルツハイマー病の妻と生きて」という題で1時間30分話をします。ホールの舞台の上でやるのだし、これには和子は連れて行けません。そのかわり彼女を写したスライドを映写して、「病気は治らなくても、心の状態はよくなる」という結論を話してきます。

 いまダム湖はとても美しい季節です。夕暮れが早くなったので、午後早い時間に迎えに行き、毎日コースを変えて歩いています。平日は誰もいなくて、2人だけで自然を独占しています。

 国内外共に物情騒然、そして心痛むことが多いけれど、それを和子に話す術はありません。人一倍感じやすかった和子に、神様が病気にかかることで安らぎを与えてくれているのか、とさえ思ってしまいます。
 書きたいことは山ほどあるけれど、長くなるので次便にします。

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