介護日記

 

 2004年5月1日

 みどりの日、初夏のような陽気に誘われて、車椅子を押して、地下鉄を使って少し遠出をしました。

 西18丁目駅に新しいリフトが出来て、マンションから歩道を歩く距離が半分になりました。ここらあたりの歩道は、傾斜があったり排水口の部分がへこんだりで、とても車椅子で歩ける代物ではないのです。
 どこへ行こうかと考え、フト思いついて、中島公園コースにしました。大通駅で地下鉄を南北線に乗り換えて、リフトが無い中島公園駅の一つ先、幌平橋駅まで行きました。電車の同じ入り口に乗っていた女の人が、小走りに駅員のいる窓口に行って、「車椅子の方がきます」と言っているのが聞こえました。車椅子は自動改札口は狭くて通れないのです。駅員が出てきて、別の出口を開けてくれました。親切なその女性は、会釈をして階段を登っていかれました。私たちはリフトで地上に出ました。
 そこは信号を渡れば中島公園の南側入り口に続くのですが、公園に直ぐ入るのはやめて、40年以上も前に私が住んでいたアパートの方に通じる歩道を歩きました。この路はカーブしながら南16条通りに続き、藻岩山の山裾まで行って、札幌をぐるっとまわる環状通につながります。
 リフトを上がった所から、広くて傾斜のない、歩きやすい歩道が続いていました。札幌南高や静修高校の生徒が通学に利用するからでしょう。途中に昔懐かしい巨大な木が歩道の端に残されていました。何の木だったか覚えてないのですが、根元の直径が1メートル以上ある老木で、まだ冬眠中か、すっかり葉を落としたままでした。でも枯れていなければこれからの季節、みどりの葉に覆われて歩道を歩く人の目を楽しませてくれるでしょう。
 41年前、私が美唄から転勤してきた札幌南高は、校舎がすっかり新しくなって昔の面影はありません。その校舎を左に見て右に曲がりました。左側は静修高校(女子高)の校舎の裏口です。建物は多分その頃のままでしょう。私が住んでいたアパートはその先にあったのですが、この辺りもすっかりマンション街になってしまっていて、40年前に住んでいたのがどこか判りませんでした。和子に聞くわけにもいかないし、茫々40年です。
 この辺りは鴨々川という清流が流れていて、車椅子がやっと通れる橋がかかっていて、それを渡ると札幌コンサートホール・キタラの正面に出ます。渡り終えたところで、中年のウォーキング中らしい男の人に出会いました。「奥さん、お元気そうですね。テレビで何回か拝見していますよ」と言われました。

 私は人工的な花壇や噴水の大通公園より、昔からの池があり、緑と清流の中島公園が好きです。
 池の斜面に車椅子は無理だけど、西高の遠足で生徒と池を見下ろしながら弁当を食べたことを思い出します。貸し切りバスで遠くに行って帰るだけの遠足が多くなり、「あんなのは遠足ではない」と生徒に意見を言っていたら、ホームルームで生徒達が選んだのが、「西高集合・旭山公園経由中島公園まで」というコースでした。バスと車が行き交う街中の歩道を歩くのだけど、距離も4キロ以上はあり、他のクラスよりは遠足らしいコースでした。
 公園の中をゆっくり歩き、また幌平橋駅から地下鉄に乗って帰りました。夕方の大通駅からの電車はかなり混んでいて、車内で車椅子を180度回転するの はかなり大変でしたが、乗客たちは親切でした。駅とプラットホームの位置によって違うのですが、ホームから電車の床まで数センチの段差があり、乗るときは車椅子のステップを踏んで前輪を上げればいいのですが、下りるときは後輪から後ろ向きにホームに下りなければ安全でないので、降りる駅のホームが2線式か島式(上りと下りの線路の中央に1線式のホームがある)かで降り口が逆になり、混んだ車内ではたいへんではあります。

 何処を歩いても人から声をかけられたり、親切にしてもらうので心強いです。でも前にも書いたけれど、地下鉄の中はもちろん、公園の中も車椅子の人には殆ど会いません。私は和子と一緒に社会参加しているつもりです。2年前私の本が出版されたとき、教え子の動物行動学者が朝日新聞の書評欄に「人は社会的存在なのだ」と書いてくれたのを改めて思い出します。やっと暖かくなったので、次の冬までの半年間、できるだけ外を歩こうと思っています。 そういえば、ずっと前、和子の肉親から、「和子さんがさらしもの」などと言われたこともありました。

 横浜に住む長兄が亡くなりました。私は7人きょうだいの下から2番目で、長兄とは13歳違います。埼玉県の深谷市で高校教師を定年まで勤めて、3年前横浜のマンションに引っ越したばかりでした。その少し前に前立腺癌が見つかり、本人も何の苦痛もなかったので「歳だからそんなに進行しないでしょう」という医師の意見もあり、本人も納得して女性ホルモンの服用という療法をとっていたのですが、少し前に血液のマーカー値が急上昇したのだそうです。私も初めて聞く「再燃」という現象なのだそうですが、ゆっくり下降線をたどりながら、それでも入院はせず、奥さんに看病されながら自宅療養を続けていました。
先月半ば、具合が悪くなって福祉タクシーで病院に行ったらそのまま入院となり、主治医から「ホスピスも考えたら」という意見も出たようだけれど、それより早く、夕方意識が混濁してそのまま逝ってしまったそうです。甥(彼の長男)から詳しく話を聞いて、最後まで自分の後始末をして逝ってしまったのだと思いました。また昭和の記憶が一つ消えました。
 最後の日々を病院で過ごすということは、ホスピスでない限りほぼ寝たきりで過ごすということになります。彼が最後の日々を、自宅のソファーで過ごすという選択をしたということは、大正生まれの頑固な男の意地をかいま見た思いです。
 お葬式のセレモニーは一切せず、近親者だけで「お別れ会」をするということで、東京に住む長男に代わりに行ってもらいました。

 彼とは13歳も離れているので、そんなに会う機会も無かったのですが、お互いに山好きだったので、機会を見つけて一緒に登りました。
 私たちが東京に住んだ2年間、その間に和子の病気も判ったのだけれど、彼の奥さんも一緒に、奥秩父や妙義の山々をずいぶん登りました。そんな高い山ではないけれど、忘れがたい思い出を作りました。カメラもうまく、山の上で笑っている和子の写真も忘れがたいです。

 自衛隊のイラク派兵で、見送りの家族たちが日の丸の小旗を振るのをテレビで見て、その情景が長兄の出征の時の情景と重なりました。おまけに、「歓呼の声に送られて・・・」という軍歌のメロディーまで甦りました。
 戦後間もなく無事復員した彼から聞いたのですが、北千島の飛行場設営隊の一員として海を渡り、設営が終わって帰国する輸送船団がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、3隻のうち彼の乗った船だけが辛くも脱出して帰国したのです。
 15歳で銃後の一員だった私でさえ、危うく生き延びた実感があります。九死に一生を得て、戦後59年彼は生き抜きました。安らかな顔だったというし、兄は大往生だったと言えるのかも知れません。60年近く、長かった彼の戦後も終わりました。

 今日の朝日新聞の記事から。
 【犯行グループについて、郡山さんは「米軍のファルージャ攻撃で家族を殺されたと話していた人もいた。外国人を拘束することでしかメッセージを送れない不器用な人たちだ」と述べた。今井さんは「すごく不器用な方法だが、僕もイラクに生まれていたら同じようにしたかもしれない。・・・】
 人質救出のためのインターネット署名を私もしたけれど、そうかなあ、と首を傾げざるを得ません。ただの外国人ではなく、ブッシュの言いなりになって、軍隊である自衛隊を送り込んだ日本という国の人間だからではないですか。いわれ無き米軍の攻撃で肉親を殺された人たちの心の痛みを、“不器用”などと言っていいのかなあ。
 今日5月1日は、去年ブッシュが、「大規模戦争は終わった」と宣言して満1周年の日です。アメリカのABCテレビのナイトラインという報道番組が、イラク戦争が始まって以来のアメリカ人死者全員の写真と共に名前を読み上げ、物議をかもしています(管理人注: 例えばCNN)。でもテレビに映し出された戦死者の大部分は20代から40代です。見ていて胸が痛くなりました。可哀想に、こんな理不尽な戦争で息子や夫を死なせたアメリカ人は、いつまで黙っているんだろうと思います。
 亡くなった長兄は、病気を抱えて86歳まで生き抜きました。和子はアルツハイマー病推定20年選手だけれど、命はからだじゅうに息づいています。今日も風が冷たかったけれど、地下鉄に車椅子を乗せて、澄川の知人を訪ねました。澄川は、昔私たちが住んだ町です。「風立ちぬ いざ生きめやも」という、堀辰雄の詩句が、また心に浮かびました。

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