介護日記

 

 2004年7月5日 斜里再訪の記

 いろいろ忙しくて、メールマガジンの間隔が2ヶ月以上あきました。ご心配もかけたかと思いながら、先日号外でテレビの特集のお知らせをしました。
 6月15日火曜日、予定通りHBC(北海道放送)の夕方のニュース「テレポート2000」の中で、8分ほどの特集が放送されました。今回は私たちの「社会参加」がテーマでした。

 その2日後、私たちはかねてから計画していた、斜里再訪の旅に出発しました。2年前、私の本が出たのを機縁にして取材を受けるようになったHBCのY記者と相談して、かねてからの念願だった斜里再訪を実現しました。斜里はその43年前、22歳の和子が北海道の高校教師として、郷里の宮城の町から2昼夜の汽車の旅の末、降り立った町です。結婚してから何度も、「いつか斜里岳に一緒に登ろう」と言っていたのが、私の現役教師の間は実現せず、和子は病気になりました。発病してから十数年たっていた一昨年は、斜里岳の記憶が彼女に残っているはずもなかったけれど、山に登り続けてきた私は、町や人が変わっても山が変わらないことを知っていましたから。

「斜里の街はわずか1年で全てを見尽くせた筈はありません。怖ろしく 又美しい自然。流氷に埋まった海岸を2時間見た私は、10年分をそこで 過ごしたと同じくらいの重みで押されました。その前には、斜里の月や星 や花の美しさなど、押しつぶされてなくなってしまうのでした」

と、後に彼女が私宛の手紙に書いた、その斜里の町に、そして斜里岳を見せに行きたいという願いが実現したのが一昨年の斜里行きでした。斜里時代の知人だった旭川のSさんも同行してくださったのですが、斜里岳は深く立ち込めた雲の中でした。

 その年の暮れ、和子は脳硬膜下血腫の手術を受け、手術をした医師が半ば予想したように、体に重い障害が残り、身体障害1級の身になりました。彼女の笑顔が消えました。「あの、こぼれるような笑顔は何処に?」と私も悩んだこの1年半でしたが、どうも彼女は以前のようには目がみえないらしい、というのが今の結論です。病気が進んで相手の顔が認識できないのであれば、笑うはずはありません。でも気分がいいとき、うっすらとひとり笑いはするのです。

 でも、「リベンジの斜里行きを!」と言い続けてきたので、決断しました。和子に斜里岳が見えなくても、やはり連れて行こう、と。
 今年は旭川のSさんも、「学童」のYさんも体調が悪く、「学童」のKさんだけがサポーターとして同行してくれました。それにHBCの取材車が同行しました。記者とカメラマンと助手の3名です。2日前の放送にも出てきた和子の「社会参加」の貴重な道具である頑丈な車椅子は折り畳めないので、大型のHBCの車に積み込んでもらい、私の車には和子用のシャワーチェアーを載せました。和子の入浴やシャワーを浴びるのに必需品です。

 朝HBCの取材車がきて、マンションを出発、Kさんの家に立ち寄って、札幌北インターから高速道路に入りました。1日で斜里まで行くのは無理なので、この日はサロマ湖までです。途中パーキングに寄ってトイレタイムの度に、カメラ助手君が21キロもある車椅子を降ろし、痰の吸引機を降ろして、まるでケアワーカーそのものでした。大学を出て今年入社したばかりという好青年です。
 食事や水分の補給も全部胃瘻からなので、お昼の分はミキサーにかけたものをランチボックスに朝用意し、昼食の時お湯を加えて暖かくします。飲み物もそうです。胃袋に直接入れるので、「人肌ぐらいの暖かさで」と言われています。暑い時の冷たい飲み物が飲めないのは可哀想だけど、仕方がありません。デイサービスで週3回訓練を受けている嚥下リハビリの効果が現れるのを気長に待つしかありません。

 旭川北インターチェンジで下りて国道に。上川から北見峠経由で順調にサロマ湖へ。途中に紋別自動車道の一部が無料開放されているので、峠のヘアピンカーブも無くなって楽だけれど、国道沿いのマチは寂れるだろうなと思いました。そういえば去年だったか、ここを国道沿いに走る石北本線の駅が、3つも同時に廃止になって驚いたことがあります。無人化ではなく駅そのものの廃止です。駅間距離が37キロなんていう例は他に例が無いのではないかと思います。
 旅は順調で夕方には湖畔のホテルに着きました。宿を手配してくださった訓子府(くんねっぷ)町のT保健師が和子の不自由なことを話してくださっていたので、宿の方もいろいろ便宜を図ってくれました。和子が全く歩けないことを見てとって、2部屋続きの部屋に取り替えてくれました。クーポンを既に買ってあるので、「値段が少しお高いお部屋なのですが、結構ですから」と。家族浴室もあるので、段差はあるけれど、Kさんがシャワーチェアーを使って何とかシャワー浴をさせてくれました。こんな浴室用の車椅子を運んで泊まりにくる客も居ないのかも知れません。 夕食は一般客は大広間ですが、取材もあるので吾々一行だけの洋室を用意してくれました。助手君がミキサーと痰の吸引機に使う延長コードを用意し、壁のコンセントにつないでくれました。
 私は家での生活の道具を持っていっただけなのですが、団体客と一緒の大広間では、器械の音も大きいし、やはりたいへんです。

 夕食を遅くしてもらって、ロビーの奥のベランダから、真っ赤な落日をしばらく楽しみました。サロマ湖の西岸の丘に日は落ちるのだけれど、落日がまだ西の空にあるときは殆ど動かず、それがサロマ湖の湖面に映って素敵な眺めでした。目の錯覚なのだけれど、落日がほとんど丘にかかると、あとは一気にかくれて、その残光がしばらく西の空に残ってこれもきれいです。物理の時間に、この目の錯覚の話を何度かしたことがあるけれど、“百聞は一見にしかず”です。でも学校で授業をしている時間帯にそれは見せられないので、生徒にはピンとこなかったでしょう。

 夕焼けが見られたので翌日の斜里岳は見えそうだと、楽しみになりました。

 その夕食の時トラブルが発生しました。私がHBCのクルーに胃瘻食の説明をしながら、料理の天麩羅の衣の中を確かめないでミキサーにかけました。汁物なども何種類か用意して注入用の60ccの注射器で入れているとき、途中で入らなくなりました。胃の中にバルーンが付いていて抜けないようになっている胃瘻チュ−ブが腹壁に顔を出した所にボタンがあって、それでチューブは固定されて抜けないようになっています。チューブの内径が約7ミリで、ボタンの穴が約3.5ミリです。いつも家でやっているときは、このボタン穴にはめ込んだ接続部で詰まります。柔らかい病人食のようなものばかりだったら詰まることなどないのですが、私と同じ食事を入れているので、粉砕しきれなかった野菜の繊維や、私の目をすり抜けた魚の小骨が混じってしまいますが、細くなっているボタンの部分で止まります。接続のチューブを抜き取って詰まったものを取って、再度注入をします。いつもはこの動作の繰り返しで、時間はかかるけれど和子の夕食は終わります。朝はパン食なので、ジュースと牛乳、紅茶とゆで卵と野菜などで、ほとんど詰まることはありません。この晩のアクシデントは、たぶんエビの殻が混じったのでしょう。そしてボタン穴をを通り抜けて胃瘻の先端部分(胃の中)の穴に引っかかったらしく、全く入らなくなりました。

 何かあったら、と北見の家で待機していてくれたT保健師に電話をしました。「近頃胃瘻の人も増えてきているので、サロマの近くなら常呂(ところ)町の国保の病院だけど当直の医師の専門にもよりますし、明日なら網走を通るのだから病院はいくらでもあります。一食食べなくても大丈夫だけれど、脱水が心配ですね」と。私は「詰まる前に水分もたくさん採っているし、一晩様子をみます」と答えました。たぶん夜の10時半頃でした。同行のKさんと相談して、シャワー浴だけはさせてやりたいと、シャワーチェアーに乗せて、借りてあった家族浴室に運びました。Kさんがシャワー浴にいれてくれて、そのあと部屋に戻り、ベッドに入れました。念のためと思って温湯を注射器で入れてみたら、何とスッと入りました。詰まってから1時間余り、シャワーも浴びて体を動かしたし、思わず「万歳!」と叫びました。一件落着でした。すぐTさんとHBCの記者に連絡しました。

 問題が解決したので翌日は予定どおり。朝食のミキサーも無事入り、網走経由で斜里に向かいました。行く手に斜里岳が見えてきました。少し高曇りの感じだったけれど、斜里の町に入る前に国道から横の農道に入り、電線が邪魔しない、車も通らない場所で車椅子を降ろしました。「和子さん、斜里岳だよ」と声をかけました。車椅子を山に向け、私が取材を受けました。和子に斜里岳が見えていたかどうか、それはわからないけれど、2年間あっためてきた思いが実現してホッとしたことを話しました。ちょうど4年前の6月、インターハイの全道大会にくっついて斜里岳に登ったことを思いだしました。かつて、「いつか一緒に登ろう」と約束したことは夢のまた夢になってしまったけれど、「彼女に斜里岳を見せる」ことは、とにかく実現できました。

 少しゆっくりしてしまったので、訓子府町からの大応援団が待つ置戸の勝山温泉に急ぎました。2年前の時は、私が訓子府町の介護教室の講師に招かれた縁もあり、介護教室を卒業した方たちが結成したボランティア団体「ほっとな仲間たち」と、保健師や栄養士のみなさんたちなど、私たちも入れて20数名の大パーティーになりました。あれから2年もたったし、和子を温泉に入れてやりたい、そのコテージに何人かでも集まってもらって夕食会ができればと、Tさんにお願いしたのでした。結局合計20名の夕食会になりました。このコテージは自炊なので、今回も「ほっとな仲間たち」は3時に集まって準備をされていました。先回は産休中だったS保健師と彼女の2世もメンバーに加わっていました。前の晩のアクシデントはT保健師からばれていて、みんなの前で言われました。「後藤さん、ちゃんとよく見て、固いものはミキサーに入れないで」と。S保健師の実家のお父さんが、オホーツクの沿岸の町からわざわざ運んでくださったタラバガニもありましたから、殻をミキサーに入れたらたいへんでした。

 夕食を終えて私たちは和子を温泉に入れるために、別棟のコテージに移りました。同行のKさんと、あとは訓子府町の保健師・ケアマネ・日赤北見看護大の講師のHさん、4人がかりでの「和子の御入浴」でした。前回は4棟あるこのコテージのうち、いちばんバリアーフリーの「はないたや」は予約が入っていて使えなかったのですが、今回はその「はないたや」でシャワーチェアーが威力を発揮しました。この「はないたや」のお風呂はスロープのまま浴槽まで入れるのです。Hさんが和子と一緒に浴槽に入ってくださったようで、和子はどんなに安心して温泉に体をゆだねたでしょう。みなさんがびっくりするほど、素敵な顔でベッドに入りました。ここの温泉は4棟それぞれ源泉からのお湯が出しっぱなしという贅沢さです。設計者が偉かったのか、置戸町の町から数キロ山奥のコテージに、こんなノーマライゼーションの考えが生かされていたとは感動でした。私もあとからゆっくり温泉に入ったけれど、本当に長旅の疲れが癒されました。
 翌朝は「ほっとな仲間たち」の皆さんが前夜用意してくださった朝食を食べ、石北峠・層雲峡経由で明るいうちに札幌に戻りました。全行程800キロ、半分はY記者に運転を代わってもらって、無事長旅を終えました。

 帰ってから間もなく、訓子府のT保健師からメールがありました。

 置戸で、最初に見かけた和子さんの顔を見て、長距離の旅はもう難しいかなと思いました。でも、私が帰る時の和子さんの顔をみると、とても、満足そうな穏やかな寝顔で、後藤さんが「和子は、体力があるんですよ」の言葉とおりですね。
 ○○年も共に歩んできたのですもの、夫と共に歩くすべは心得ている和子さんなのですね。お風呂は、4人かかりでしたがHさんが一緒に入ってくれましたので、和子さんはゆっくり肩まで温泉につかることができました。和子さんの寝顔、何か清らかで天使のようなお顔でした。
 秋のお墓参り、今の体力があれば大丈夫ですね。
 (後藤註:○○年は今年ちょうど40年です)

 北見のHさんからもメールがありました。

はじめてお会いした奥様が とても要介護5とはおもわれなかったこと、 介護の仕方で人はこんなにも違うのだと気づかされた次第です。 仕事上要介護のかたに学生の実習引率などでも たくさんお会いしているのですが、さすがに奥様のような状況の方で、 胃ろうがはいっていて尿の留置カテーテルがはいっていて 何日も旅行をなさる姿はあまり拝見しません。 訪問看護師など専門家が介入している場合でも なかなかそのような機会がもてませんので

 たくさんの方たちのサポートを得て3日間、800キロの旅が実現しました。

 和子の病気が、明らかにそれとわかるようになってから、きょうだいたちは、少しずつ接触を断ってきました。私のきょうだい達は会いにきてくれます。私のきょうだい達の不幸の時(年末から3人続きました)は、みんながわかってくれているので、それに甘えましたが。和子のお母さんの時は、和子はホームに居たときで、私が代わりに行けたのですが、本州にいる子ども達に頼みました。きょうだい達に、親味に付き合ってきた和子が可哀想で、誰にも会いたくなかったのです。そのとき思いました。「いつか和子を、お墓参りに連れていけばよいのだ」と。

 秋には和子の母の眠るお墓に連れて行こうと計画しています。

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