介護日記

 

 2004年8月5日

 2004年の8月になりました。6日はヒロシマ・9日はナガサキの原爆忌、そして15日は終戦記念日です。私にとって忘れられない7月9日の岐阜大空襲の日は、教え子が訪ねてきて、彼女のやや深刻な状況などを聞いて過ぎてしまいました。何日かして思い出したのですが。

 あれ(1945年)から59年たちました。60年近く戦後を生き抜いてきた3兄と長兄と4兄の夫人が、この数ヶ月の間に相次いで亡くなりました。私は終戦時15歳だったから、戦後の60年に比べて戦中の記憶は多くないのだけれど、戦争末期数年の記憶の密度は少しも薄れていないのです。

  和子さん。戦後12年経って私たちは出会いました。最初は音楽がわかりあえる同僚・友人として。しかし、やがてわかったのは、「音楽が無くては生きていけない同士」でもあったのです。2年前に出た私たちの本の感想を、東京にいる古い知人が書いてくれました。(彼とは三十数年音信がありませんでした)。その一部に、「(本には)クラシック音楽への傾斜が脈打っています。こうまで愛してくれたなら、バッハやモーツアルトも、もって瞑すべしでしょう」と。
 出会って2年後の1964年にあなたは教員をやめて、私たちは一緒に生活を始めました。それから今年で満40年です。でも19年後の1983年に私は室蘭に単身赴任してしまい、それから21年経ちました。何度か書いたけれど、あなたの病気が発症してあなたが不安を一人で抱えて居るときに、私はそばに居なかった。今のようににアルツハイマー病についての情報は多くなかったし、50歳にもなっていなかったあなたがアルツハイマー病になどと夢にも考えなかったのが、取り返しのつかない私の迂闊さでした。典型的な兆候が後から考えれば出ていたのだから。
 初々期の発見と治療がいちばん大切と今では言われています。でもそれを、そばに居なかった私は見逃し、9年後に東京の病院で検査したときは、脳の萎縮はどうしようもなく進行し、「中期症状」と宣告されたのでした。
 いのち長き時代、結婚50年の金婚を迎える夫婦はざらでしょう。「よくお世話をなさいますね」などと人から言われるけれど、私はいま41年目に入った夫婦の続きをやっているだけなのです。
 目も良く見えなくなったあなたに何が残っているのかと考えれば、耳は確かで音楽を聴き分ける能力だけかも知れない。でもその感想を言葉で表す手段をあなたは全く持たない。そして、相手を見てにこやかに微笑むことはしなくなったけれど、あなたと一緒にいる私は安心なのです。このマンションに引っ越して在宅介護を利用しながら一緒に暮らし始めてから、私は持病の狭心症を忘れてしまったみたいです。春先や秋口に必ずやってきていた胸のアタックはほとんど無くなりました。主治医である教え子の心臓血管専門医が、「ストレスがないと、そんなに違うものなのですねえ」と驚いています。

 春先から「今年で結婚満40年」と思い続けていたら、本のあとがきに書いたような、和子への手紙が毎日心に浮かんでいました。和子はもう、あのこぼれるような笑顔は見せないけれど、3食私と同じ物を食べ(ミキサーにかけたのを胃瘻から入れるのですが)顔色も良く、病人の顔ではありません。訪ねてくれる人みんなに言われます。

 デイサービスの利用は週4回になりました。私は元気なのですが、寝不足が顔に出るらしく、ケアマネやデイのスタッフが心配してくれました。夜中に痰の吸引で起きることもあり、和子がデイに行っている間に午睡を少し取るようにしています。気持ちの上で息抜きがしたいとは思わないのですが、寝不足が体に応える年齢になったのかも知れません。
 腰を痛めると在宅介護そのものが成立しなくなりますが、この頃コツを覚えたのか、あまり腰に負担がかからないようになりました。ベッドから車椅子、車椅子から自動車への移乗、そして暑い日が続くので休みの日(土・日曜日)シャワーチェアーへの移乗も何とかやっています。自分だけ毎晩シャワーを浴びて少し心に咎めていました。

 それにしても地球規模の循環系の異常です。夏台風の進路も異常だったけど、台風が過ぎたあとの豪雨災害、北海道も毎日湿度が高く、からっとした北海道らしい夏はどうしたのでしょう。「猛暑の北海道から」など書いたら、暑さの中で豪雨災害と闘っている被災者の方に申し訳ないのですが。

 札幌西高OBオーケストラと合唱団でベートーヴェンの第九を演奏して3年が経ちます。同窓会館に寄付した和子のグランドピアノは、卒業生や受験生たちに有効に使われているようですが、やっぱりそのピアノでまた合唱をやりたいという思いはつのっていました。その願いがかなって、去年の秋、OB合唱団が「西高メモリアル合唱団」として常設されることになり、2年に1度ぐらいOBオーケストラと演奏会を開くという計画ができました。今年はヨハン・シュトラウスU世の「美しき青きドナウ」をオーケストラと一緒に演奏します。和子を置いて行けないので、毎回一緒に練習に通いました。和子はバスパートの左端で私と並び、ピアノのすぐそばで目をつむって聴いています。第九演奏会から3年ですが、「素敵な音ですよ」と西高OGのピアニストの方に言われています。
 先回の練習日に本番の指揮者がきました。休憩時間に「奥様ですか」と聞かれました。ちょうど古い和子の楽譜が見つかって持っていったので、見せました。モーツアルトの「戴冠ミサ曲」の楽譜で、裏表紙の扉に和子の字で、

   1956.11.4 六軒丁教会にて
  貴方の生誕二百年を祝って
    私達は うたいました

と書いてあります。和子の、モーツアルトへの手紙です。和子は大学2年生、アルトのソロを歌っています。200年前に生まれたモーツアルトに手紙を書くほど和子が音楽に打ち込んでいた様子が想像できます。
 指揮者の彼は、「わあ、僕の生まれた年です」と驚いていました。

 今年の演奏会は、8月14日、18時30分、教育文化会館大ホールです。第九のような大曲ではないけれど、きれいなハーモニーになってきたのが、歌っていてわかります。第2部はブラームスの交響曲第2番です。毎年聴きに行って思うのですが、お盆休みに全国から楽器を抱えて集まってきて、本番の2日前から音合わせをして、ちゃんとした演奏を聴かせる実力です。いや、実力というよりは、楽員一人一人の音楽に寄せる想いの結果なのでしょう。当日はサポーターの方を頼んで、私が舞台にいる間、和子を見ていてもらいます。

 メルマガの読者の方から指摘がありました。「件名」の部分のタイトルが、プロバイダーによって短くしか受信できないことを初めて知りました。それで今回の号から短くしました。コンピューターの世界は、判らないことだらけです。

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