介護日記

 

 2004年9月20日

 暑かった夏があっという間に過ぎて、北海道は秋の色が濃くなりました。このあたりはまだ日中は汗ばむ日もありますが、大雪山系の黒岳からは錦繍の便りです。

 ずいぶんご無沙汰しましたが、和子も私も元気です。昨日は車椅子で大通駅から東7丁目の札幌市民ギャラリーまで歩いて、Kが「北海道教育長賞」に選ばれた「道彩展」を見に行きました。「道彩展」は北海道では最大規模の水彩画の公募展です。彼女が描いた「ひまわり」は、堂々として色鮮やかで、油彩画を見るようでした。和子はリクライニングにした車椅子でずっと目をつむっていて、最後に別れるとき、まるでKが見えるようにぱっちりと目を開けました。
 市民ギャラリーに近いバスセンター前駅はエスカレーターしかなく、大通り西3丁目のリフトの出口から会場まで1キロメートルぐらいあります。車椅子を押して、とても歩きにくい歩道を往復2キロ歩きました。

 久しぶりにKと会い、40年も前のことを思い出しました。Kは私の教え子ではありません。浦河高校の教え子のSが、看護学校のあと札幌女子教員養成所を卒業して、胆振の小学校の養護教諭として赴任が決まったとき、「看護学校の同級生です」と連れてきたのです。Kは偶然ですが浦河の隣町の静内高校の出身で、隣町の出身ということもあり、何となく教え子みたいでした。
 Kは看護学校を卒業してナースを1年やったあと、Sより1年遅れて女子教員養成所に入り、1年間わが家に出入りするようになりました。

 和子は持病の心臓リューマチが直らないまま教師を辞め、札幌にきて私と一緒に生活を始めました。長男が生まれ、それでも音楽教師の道に戻るために家を建て、ピアノを入れました。借家で音楽教室をするわけにはいかなかったからです。住宅金融公庫の抽選に3回はずれ、4回目にやっと当たりました。頭金は、彼女の少ない退職金を当てました。私立高校の時間講師を2校でやりながらヤマハエレクトーン教室で資格を取り、ヤマハの教室に講師として通い、家でも音楽教室を始めました。いま思い出すと、ずいぶん厳しい新婚生活でした。そんな生活の中に、看護学校時代の教え子Sが助っ人として現れ、彼女が養護教諭として赴任したあとを、Kが引き継いでくれたのです。

 ピアノの部屋は日曜日は空いていたので、Kの学友たちが集まって婦人論の学習会を開き、私がチューター役を引き受けました。私は自分のことは全部自分でできたので、「ハウスワイフはいらない」と広言していて、その点ではいわば筋金入りではあったのです。マルクス・エンゲルスからべーベル・レーニンまで1冊にまとめた大月文庫の「婦人論」もテキストの1冊でした。その学習会に来ていた養護教諭の卵たちが、ずっと仕事を続けているのを風の便りに聞いていましたが、彼女たちも去年あたりから定年を迎え始めています。大学時代、左翼のアクティヴの女子学生が、同じアクティヴ仲間と結婚して、いとも簡単に専業主婦になってしまうのを散見し、「もったいないことを」と不思議な思いで見ていたような気がします。
 子どもを持って、必要上はいり込んだ保育運動の仲間には、イデオロギーなどとは関係なく、当然のように運動に参加してくる男親がたくさん居ました。親が保母さんを探して運営する共同乳児保育・共同学童保育・共同夜間保育と、いつも男親も一緒でした。後に共同学童保育運動をまとめる市内の組織の連絡協議会を札幌で作った時、行きがかりから会長になり、自分の子どもが成長して関係無くなったあとも、7年間も会長を続け、対市交渉を報じた新聞記事を見た同僚たちから、「あんた一体何をやっているの?」と不思議がられたこともあります。
 昨日Kと少し話したのですが、彼女を私に引き合わせたSが現職のまま乳ガンの再発で亡くなってこの夏で10年になります。帯広の病院に末期の彼女を見舞った時、「先生わたしまだ死にたくない」と涙を流したことは、永久に忘れないだろうと思います。その1週間後の無念の死でした。新しい記憶がとっくに駄目になった和子が、Sが亡くなったことを1年あとまで覚えていたのは不思議でした。

 アルツハイマー病にかかった和子が無念でないわけはありません。「恍惚になって、何もわからなくなって・・」というのは嘘っぱちです。病識があった和子は、とても可哀想な日々が続きました。
 いま「老人の健康法」が話題です。NHKもいろいろ特集番組をやっています。怪老とまで言われる90代や100歳を越えた人たちまで動員して、脳科学者が最新の測定技術を使って、まるで頭と手や体を使えばボケにはならないと言わんばかりです。でも不思議なことに、「病気によるものは別」とは決して言わないのです。それは自然老化と言われる領域ではそうでしょう。でも頭と手と体を使い続けた和子は、推定40代の末に発症しました。12年前に病気が確定したときは脳の萎縮も進んでいました。かれこれ病歴20年にわたる辛い闘いを、私は同伴者として見続けてきました。そしていま、縁あって教え子の医師のマンションの介護つきフロアに二人で住むことができるようになり、私も精神的に安定しました。私が安定すれば、たぶん和子にもわかるのでしょう。会話はできず、目もよく見えなくなっているけれど、とても健康です。さっき車椅子で眠っている顔が穏やかでとても良かったので、写真を黙って撮りました。フラッシュが光った時、びくっと体が動きました。明暗ははっきりわかるのでしょう。彼女に肖像権はあるけれど、ずっとそうだったように許してくれるでしょう。

 昨日Kと別れたあとの帰り道は、正面から夕日を浴びて、何か心が明るくなりました。ふと「銀色の道」のメロディーが心に浮かび、歌いながら帰りました。「遠い遠い はるかな道は 冬の嵐が 吹いてるが・・」「ひとりひとり はるかな道は・・」「続く続く はるかな道を・・」と続く歌詞は、最後は「夜明けは近い」と希望を歌いあげているけれど、病気は進行しているのだし、銀色の道の向こうに“希望”が見えるとは言えないでしょう。もうじき68歳になるけれど、このまま元気で生き続けて欲しいと思います。
 これは私たちが結婚して子どもが二人になった頃の歌です。二人目の子どもが生まれて、和子の持病だった心臓リューマチが再発して、家で寝ていました。大学時代の仲間がうちに見に来て、生後数ヶ月の娘を奥さんが預かってくれました。その頃は札幌市になる前の手稲町だったかも知れません。手稲追分というバス停のそばに家がありました。2ヶ月ぐらいだったか、いま私は教え子の主治医が居る手稲区の病院に毎月1回通っています。地下鉄の終点・宮の沢駅から乗るバスが、手稲追分というバス停を通るときに、いつも思い出します。追分という地名は、そこで街道が二つに分かれていたのだと思うけれど、いまは片側3車線の国道が走っていて、昔の面影はありません。結婚した年に生まれた長男が40歳だから、わが家の歴史は、この40年の中に詰まっています。

 西高28期の3年のクラス会を、和子の検査入院にあわせてやっていたけれど、「一度和子の様子ををみんなに見て欲しい」と話して、ここの院長から許可が出て、2階のデイサービスの部屋を借りてやりました。飲み物を買ってきて、出前を取って、みんなの前でミキサーを回して、胃瘻から注入する和子の夕食を見てもらいました。20年ほど前に正月休みに家に遊びにきた教え子もいて、あとから電話で、「和子さん顔色も良くて、そんなに病気が進んでいるようには見えません」と言っていました。「和子の様子ををみんなに見てもらう」試みは、先ずは良かったのだと思いました。

 「戦争の8月」のことを書かねばと思いながら、もう9月も下旬です。来月は「学童」の親仲間二人にサポーターをお願いして、和子をお母さんのお墓参りに連れていきます。

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