介護日記

 

 2004年11月23日 「東北旅行記」 その1

 2ヶ月ぶりの『介護日記』です。この間に残暑が過ぎ、珍しく台風が北海道にも上陸し、北大のポプラ並木や、植物園の原生林の木をなぎ倒しました。この近所の街路樹もあちこちで倒れ、まだ原生林の面影を残す円山公園も、根元からひっくり返った木や、まっぷたつに割れた痛々しい木が道をふさぎ、何日間も通行止めでした。

 2ヶ月も書かなかったのは、和子を連れての東北旅行という、旅慣れた私にも大きな仕事があり、その準備と帰ってからの疲労が重なったからです。その間に北海道の秋はあっという間に過ぎ、初雪が降りました。淡雪程度ですぐ消えましたが、峠は圧雪やアイスバーンで、冬季閉鎖に入った峠道もあります。山間部のスキー場も営業を始めました。

 11月9日のメルマガ号外で、その東北旅行を同行取材したHBC(北海道放送)のニュース特集が19日に放送されるとお知らせしましたが、局の側の都合で月末30日に延期になったことも、その前日のメルマガでお知らせしました。しかしこの号外は最初の号外は同じものを4本、2回目のは2本送ってしまいました。いつもは送信ボタンを押せばそのまま送信されるのですが、今回は送信ボックスに入ってしまい、いろいろやって いる間のエラーでした。その少し前にパソコンのマシンを入れ替えたので、私がまだ新しいソフトに慣れていないせいなのかも知れません。いずれにしても、お騒がせしたことをお詫びします。受信状態をチェックするために自分の携帯にも送っているので、同じメールが4本も続けて入り、自分でも仰天しました。

 旅行は往復船中泊も含めて4泊5日、帰ったのが22日で、翌日夕方が地震のニュースでした。次々と明らかになる被害の大きさに息をのみました。今日23日が新潟中越地震からまる1ヶ月です。夕方のニュースが、現地の各地で行われた合同慰霊祭の様子を報じています。ボランテイアにも行けないので、応分の寄付を日赤の口座に送りました。

 前置きが長くなりましたが、「東北旅行記」の本文です。

 3年前に和子のお母さんが亡くなりました。飛行機には乗れないので本州に住む息子たちに行ってもらいましたが、あまり遅くならないうちにお墓参りに連れて行きたいと、夏の斜里旅行の時からHBCの記者に話していました。そしてお墓参りのあと、和子の大学の恩師のご都合が良ければ、お伺いしたいと考えていました。
 道内の旅行は多少遠くても、宿泊地の受け入れ態勢さえ作ってもらえば、車に乗せて行けばいいのですが、道外へと考えると、選択肢は往復フェリーを使って海を渡るしか方法がありません。飛行機の中でおむつ交換はできないし、痰の吸引機も動かせません。新幹線が八戸まで延びても、おとなのおむつ交換ができるトイレはありません。そういえば、斜里行きの時、高速道路のサービスエリアや道の駅の車椅子トイレに、おとな用のベッドは見かけませんでした。そんな不便はあったけれど、訓子府町のT保健師が北見市の自宅で待機してくれていたので、胃瘻チューブが詰まったりしたアクシデントに、夜遅くまで相談に乗ってもらい、心強かったのですが、今回は全部自力で対応しなければなりません。

 そんなわけで、苫小牧から秋田に行くフェリーの4人用個室を確保しました。ここのクリニックのDrに頼んで、導尿カテーテルと胃瘻のカテーテル、バルーンを膨らませるのに使う蒸留水まで用意してもらいました。病院はどこにでもあるけれど、カテーテルは太さが何種類かあるので、病院に行けばどんな太さのものでも常備しているわけではないのです。出発の前夜、Drが部屋に現れ、発熱の時の熱冷ましをくれました。そして、それでも熱が下がらない時は、いつでも電話するように言われました。このマンションの介護フロアでは、いつでも緊急ボタンを押せば対応してくれるのですが、4泊5日の旅行中も、そのサービスが東北にまで延長された感じでした。いつものように手伝ってくださる、学童保育の時代の親仲間だったHさんとSさん。Sさんは初めてだけど、この近くの重度障害児の施設に長く勤めていた元ナースで、心強いサポーターでした。それにHBCの取材クルーが3人、車2台7人の旅行でした。
 結局、和子は下痢以外は何事もなく、無事に帰ったのでしたが。

 第1日は苫小牧を夜8時前に出航して秋田港に朝8時頃に着きました。秋田自動車道に入り、西から東に東北の脊梁山地を一気に抜け、北上ジャンクションから東北自動車道に入って一路南下、4時間足らずで実家の近くのインターチェンジに着きました。途中昼食のために立ち寄った岩手県の前沢サービスエリアの車椅子トイレには、大人用のベッドがありました。幅が狭い診察台程度のものを持ってきて置いた、という感じでしたが、ずいぶん助かりました。新聞の投書欄で、「おとな用のベッドが無いと、親を連れて旅に出られない」というのを読んだことがあります。
 サービスエリアのレストランの横にある、立ち食いコーナーは人の出入りも激しいので、おそばをミキサーにかけるのに好都合でした。ミキサーは大きな音がするのです。

 実家のある町は宮城県の北の端で、周囲を水田に囲まれた、人口1万5千人ほどの静かな町です。和子はこの町で4歳から高校卒業までを過ごしたのです。病気が進んで目もよく見えないらしく、脳の言語回路は壊れてしまって、いうところの記憶はもちろん無いので、お墓参りといってもわからないかも知れないけれど、感性の記憶はまだ残っているだろうと私は思っています。花を供えてしばらくの時間お墓のそばで過ごしました。91歳で亡くなるまで和子のことを案じていたというお母さんも、安心してくれたかも知れません。
 お墓参りのあと、町の中を貫く迫(はざま)川の岸に降りて、川辺の小道を車椅子を押して歩きました。ちょうど夕方で白鳥が群れをなして川面に帰ってきていました。和子が通った小・中・高等学校はもちろん校舎は新しくなったけれど、迫川の岸辺の風景は昔のままでした。
 川の水は上流のダムのせいで少ししか無かったけれど、昔は農産物の集散地で、迫川から舟で北上川に下る、このあたりの中心の町だったそうです。和子と出会っておそらく20回以上はこのあたりを歩きました。私が通った岐阜の小学校のあたりは、すっかり様変わりして、昔の面影は何もなく、和子の育ったこの町の方が私のふるさとみたいな感じでした。実家の妹はテレビのクルーが同行することに難色を示したので、会いませんでした。人それぞれ考えがあるから、無理はしないけれど、ここを訪れるのも最後にしようと心に決めて、町をあとにしました。

「迫川と白鳥」 (画像をクリックすると大きく表示します)
迫川と白鳥

 そういえば、6月の斜里行きのとき、ちょうど知床で開かれる浦河高校の同期会にも一部参加しようと思っていたのですが、現地の幹事から「今回はご遠慮頂きたい」と電話をもらって、別の日程で斜里行きを計画しました。副担任だったけれど、ずっと同期会に参加していて、私だけ皆勤でした。和子を連れて参加したこともあり、「知床で会いましょう。奥様もご一緒に」という年賀状も何人かからもらっていたので、残念でした。もちろん生徒達は和子の病気を知っています。本の出版記念会にも数名来てくれて、代表がスピーチをしてくれました。「仕事で行けないので、せめて皆さんに読んでもらいます」と、20冊注文してきた同期の東京の大学教師もいます。

 20日の朝刊に、【「痴呆」改め「認知症」、「蔑視的」指摘で厚労省が変更へ】という見出しの記事が載りました。厚生労働省の検討会に寄せられた6000人余りの国民の意見では「認知障害」の方が多かったようだけど、精神医学の分野ですでに使われているということで、「認知症」になったということです。来春までには行政文書でも切り替えを目指す、ということです。統合失調症もそうですが、少し意味不明という感じもあるけれど、慣れてくれば違和感も無くなるでしょう。「痴呆」とか、「精神分裂」とかいう、そら恐ろしい差別用語がたぶん一世紀あまり平気で使われてきた、この日本の社会を恐ろしいと思うし、言葉が変わっても差別をするのは人の心だという思いを、2回の経験で強く持ちました。

 「東北旅行記」は2日目までを書いただけですが、長くなるので続きを数日中に書きます。

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