介護日記

 

 2004年12月3日 「東北旅行記」 その2

 北海道は急に寒くなりました。雪が遅かった札幌も一面銀世界です。あちこちの高速道路が吹雪のため通行止めになっています。29日は終日氷点下でした。12月下旬の寒さだとか。これも地球大異変の兆候に思えます。

 以下「東北旅行記」 の続きです。

 現地での宿は旅行社と相談した結果、帰りのフェリーの便も考えて、松島のホテルにしました。旅をするのに旅行社の窓口で相談したことなど、かつて無かったのですが、今の和子を連れての旅は、そうもいきません。
 何より問題は食事とお風呂です。仙台市内のホテルでは、レストランでミキサーを回したり、痰の吸引機を動かすわけにはいきません。そして部屋にあるユニットバスでは、持って行ったシャワーチェアーに本人を乗せ、それに介添えのお二人が付くスペースはありません。
 HBC(北海道放送)の取材もあり、食事は他のお客さんたちとは違う別室が必要で、お風呂は大浴場でなければ無理です。出発前の旅行社との打ち合わせで、この二つは一応クリアーできました。旅行社も、身体障害1級の患者の個人旅行は扱ったことがないらしく、とまどい気味でした。いまどきだから障害者の団体ツアーは増えているらしいけれど、ほとんど飛行機だと言っていました。たぶん、身体障害1級・精神障害1級の重複障害の患者の旅行は前代未聞なのでしょう。松島のホテルの、大浴室の入り口や内部の段差がどれくらいかは、もう何センチの段差かという問題で、これは現地で対応するしか無さそうで、そのまま出発しました。

 お母さんのお墓参りを済ませ、松島のホテルに着いた時はもう真っ暗でした。びっくりするほど巨大なホテルで、あとでスタッフの人に聞いたら、宿泊定員は千人を超すのだそうです。

 食事は調理場の隣の別室が用意してあり、食事の間2時間あまり、ずっと係の女性スタッフがついてくれました。ミキサーに使うぬるま湯も必要だし、一品毎にミキサーを洗う流しも必要で、それも全部完備されていました。
 ホテルに着いたとき、担当の男性スタッフが決まっていて、食事の時間を除いて、ずっと私たちに張りついてくれました。札幌の旅行社からの念押しが行き届いていたのでしょう。

 中国か台湾からの団体客が多くて、中国語が飛び交っていました。その中で私たちは、ちょっとしたVIP待遇でした。女性用大浴室は入り口に引き戸があり、その中に靴脱ぎがあります。靴脱ぎと脱衣場の間に大きな段差があるようですが、引き戸から中には私もホテルの男性スタッフも入れません。食事中に用意してもらった断面が三角のスロープを中に入れて、そこに女性スタッフが二人来てくれました。間もなく女性スタッフが出てきて、あとは予定時間の20分間、私と男性スタッフは廊下で待ちました。
 そこでお話を聞いてわかったのですが、本当は脱衣場から中に制服姿の女性スタッフが出入りするのは、お客さんにいい顔をされないので、あまりやらないようにしているという話でした。
 男性大浴室に、従業員が使用済みのタオルを片づけに来ることはどこのホテルでも再々あり、客の誰も気にしていないので、女性客の心理は違うのかも知れません。

 和子がシャワーチェアーで出てくる時刻に、また女性スタッフが二人きてくれて、脱衣場から和子を連れだしてくれました。そこでちょっとした事件がありました。和子は自分では座位が保てないので、サポーターのお二人は脱衣場からスタッフに和子を託して、もう1度入浴のために中に入られ、スタッフが二人で和子のシャワーチェアーを押してスロープを下がるとき、和子がシャワーチェアーから滑り落ちてしまったのです。スタッフは初めての経験なので仕方ないのですが、和子が廊下のカーペットに上を向いて転がってしまいました。一瞬のことでしたが、すぐ和子を起こしてシャワーチェアーに乗せてくれたのは中国の方たちで、一緒に出てきた日本人客は呆然として、遠巻きにして眺めている間の出来事でした。
 よく言われる、頼まなくては手をさしのべてくれない日本人に対して、中国の方たちは考える前に体が動いたという感じでした。あとから考えたのですが、昔は日本人もそうではなかったということです。戦後日本が、高度成長期を経験して、自分の家族や、ごく身近な人以外には手も口も出さない、そんな風に国民性が変わってしまったんだなあ、という感想を持ちました。中国語らしきものが飛び交っていたので、中国の方たちか台湾の方たちかはわかりません。
 ともあれ、無事入浴が終わりました。部屋にシャワーチェアーで戻り、口腔ケアをしてベッドに入れました。彼女は安らかな顔で眠りに入りました。

 翌日はあいにく雨でした。台風23号くずれの温帯低気圧が宮城県沖から太平洋に去り、その余波でした。松島から和子の母校へ行く道が複雑怪奇で、たいへんでした。もともと仙台は伊達政宗が、天然の要害として築いたという話があり、市内の道は至る所行き止まりや一方通行が多いのは知っていたのですが、市外ヵら市内に入る国道や県道が不自然に折れ曲がり、案内標識も十分ではなく、前夜の宿での図上演習のようにはいかず、学院への到着が大幅に遅れました。
 その中を、大学当局、同窓会、和子の恩師と同級生たち、そして現役の声楽科の学生さん達と指揮をなさる先生たちが、暖かく出迎えてくださいました。できるだけ雨にぬれないように、車を通常は通れない道に入れてくださり、最後は大学事務局の方たちが車椅子を持ち上げて廊下にあげてくださいました。招き入れられたのは、立派なパイプオルガンがある奏楽堂でした。このキャンパスはまだ新しく、和子が在学していた頃の、仙台駅に近いキャンパスから離れた、緑豊かな丘陵地に引っ越したのです。数年前、和子が小樽の特別養護老人ホームに入所していた頃、私だけで恩師のS先生にお会いしたくて伺ったことがあります。この学院は1886年(明治19年)創設された宮城女学校が前身で、今年で創立118年になります。
 奏楽堂で待っていてくださったのは、オルガンニストと7人ほどの合唱団、指揮の若い先生でした。オルガン演奏と賛美歌を何曲か、そして後半は星野富弘の詩に、指揮をなさった先生が作曲された、「日々草 — 今日もまたひとつ悲しいことがあった、今日もまたひとつ嬉しいことがあった・・」と続く、素敵な女声3部合唱曲でした。
 星野富弘の詩画集は私がずっと学校図書館の係をしていたので、図書館に何冊も置いていました。中学の体育教師として部活の指導中、頸髄を損傷して手足の自由を失い、筆を口にくわえて書き始めた、その絶望から立ち上がって生命の賛歌を歌いあげたその詩画集は、生徒達に良く読まれていました。私たちも数年前、私が『介護日記』を書き始めた頃、そのワープロを打ってくれていた群馬の教え子宅を和子と訪ね、彼女の夫の運転で群馬県の東村にある彼の美術館を訪ねたことがあります。和子が混乱期にさしかかる頃で、私自身ときどき襲ってくる絶望感と闘っている時期でした。「原因不明、治療法はない」というのが、アルツハイマー病の患者に突きつけられた現実でした。彼の美術館で数時間を過ごし、少し勇気をもらいました。
 その彼の詩に、こんな美しい曲がつけられ、その生演奏を聴いて感動しました。

 地元の日刊紙、河北新報の記者が取材に来て、翌日の朝刊にカラー写真入りで、4段抜きの記事が載りました。大きな見出しに、「後輩の賛美歌 奇跡を起こす、アルツハイマー患う札幌の後藤さん 歌声に唇震わせる」とありました。たしかに和子は口を動かしていました。賛美歌は彼女が知っている曲ばかりだったけれど、初めて聴く星野富弘の詩につけた合唱曲の時も彼女は口を動かして歌っているようでした。和子が言葉を失ってから何年にもなります。賛美歌は大学時代の記憶が彼女の大脳に残っていたのでしょう。でもこの日初めて聴く合唱曲にも反応したのは驚きでした。

 同行して取材したHBCの特集が11月30日のニュースの時間に放送されました。その中で、彼女が初めて聴くその曲に、口を動かしているのが、はっきり見てとれました。

 演奏が終わったあと、ロビーでHBCのディレクターが合唱をした学生たちにインタビューをしていました。それが放送された中に収録されています。学生たちは、「私たちが歌っているときに、一緒に口を動かされて、歌ってくださっているのがわかって・・」「伝えてあげたいという気持ちがこみ上げてくる感じがしました」と語っています。半世紀もの時を隔てて、音楽がそのバリアーを見事に飛び越えている実感がしました。
 賛美歌を指揮され、この合唱曲のピアノ伴奏をされたN先生から、CDを頂きました。星野富弘の詩に彼女がソプラノ用に作曲された6曲の組曲の中に、この日演奏された曲が入っています。帰ってから毎日このCDをかけて、私も歌っています。素敵なソプラノの声にあわせて私も歌っています。とてもキーは高いのですが、ファルセットで何とか歌えます。宮城学院音楽科助教授のN先生は、日本音楽コンクール作曲部門第一位入賞のあと、ヨーロッパで活躍された方です。素敵なソプラノ歌手の方は、桐朋学園卒業のあと、やはりヨーロッパで活躍された方です。

 札幌から同行してくださったお二人や、この日集まってくださった同級生の方たち4人も、皆さん泣いていらっしゃいました。
 このあと同窓会館に行って、恩師のS先生、4人の同級生の方たちと、昼食をご馳走になりながらお話しをしました。和子はお蕎麦をいただいてミキサーを回して胃瘻から入れ、吸引機も動かして痰の吸引もしました。誰が見ても最重度の和子を見ながら、皆さんとお話しするのも、何か不思議な光景でした。でもやはり、音楽が数十年の時間を飛び越えてそれを可能にしたとしか表現できません。

「松島湾をバックに」 (画像をクリックすると大きく表示します)
松島湾をバックに

 お天気が良ければ、和子が学んだキャンパスがあった仙台駅に近いあたりも歩きたかったのですが、雨がやまないので早めに松島の宿に戻りました。

 翌日は天気も良くなり、夕方のフェリーまで時間があるので、松島湾内一周の船に乗り、そのあと伊達政宗ゆかりの瑞巌寺に寄りました。和子の学生時代のアルバムを見ると、彼女は学友たちと来ているし、私も独身時代来たことがあって、二人ともほぼ半世紀ぶりの再訪です。

「松島瑞巌寺で」 (画像をクリックすると大きく表示します)
松島瑞巌寺で

 帰りの船は、外洋に出ると台風のうねりが残っていて少し揺れたけれど、翌日午前定刻に苫小牧港につきました。
 たくさんの方たちのサポートと、母校の思わぬ歓迎を受け、無事4泊5日の旅は終わりました。

 「そうまでして、やはり旅に出るのか」と問われれば、やはり私はイエスと答えます。どんなに障害が重くても、人間が社会的存在である事実は変わらないし、寝たきりでは社会的存在とは言えないと思います。もちろん、内科的疾患をかかえていないからできるのですが。
 障害者スポーツが盛んです。和子は重度なのでスポーツは無理だけれど、それでも旅をして、外の空気に触れれば、それなりの社会参加にはなります。たとい目が見えなくてもです。

 ここのクリニックのスタッフを初め、ご心配頂いた皆さんにも厚く御礼を申し上げます。無事に旅から戻りました。冬はまだこれからですが、あと4ヶ月、4月初めには雪は消えます。インフルエンザのワクチンも二人とも打ちました。風邪を引かないように気をつけて、春の到来を待ちます。

(管理人からの注)
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後輩の賛美歌

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