'99年11月3日 文化の日

 

大量の雪虫が飛びました

 錦繍に彩られた小樽の秋もそろそろ終りです。今年は暑かった夏が長く、秋になって急に冷え込んだので、紅葉がとりわけきれいでした。
 大量の雪虫が飛びました。
毎年かならずこの時期に出現するこの虫を見ると、生命の不思議さを感じます。この数時間を飛ぶために長い1年間をどうやって過ごしているのかと思います。
 小樽の気温はまだ氷点下にはならないけれど、山間部の降雪の便りが聞こえてきます。

 少し前、文芸評論家の尾崎秀樹(ほつき)が胃癌で亡くなりました。彼は私より1歳年長ですが、同世代の人たちが相次いで亡くなります。癌も心臓病もアルツハイマーも、半分以上は環境因子だとも言われるから、私たちのような戦後50年余りを生きてきた世代は、何が起きても不思議ではないのかも知れません。私の旧制工業学校時代の同級生も2割が物故者だそうです。
 東京に住んだ2年目の秋、西武新宿線沿線で隣の保谷市で開かれた小集会に二人で行きました。「ゾルゲ事件と尾崎秀実(ほつみ)」とかいうタイトルで、実弟の尾崎秀樹が講演をしました。
 1943年9月がゾルゲと尾崎秀実に死刑判決が出た年(翌年11月に処刑)なので、その50周年記念の集会だったかと思います。
 土曜日の午後でしたが、30人ぐらいの集まりで、私たちはパイプ椅子の前から3列目ぐらいで、今どき珍しい和服と足袋姿の彼を忘れません。「東京というところは、こんな有名人を直ぐ近くで見られる所なんだ」と思った記憶があります。
 私はゾルゲ事件についての本を何冊も持っていたし、和子も読んでいます。彼女の新しい記憶はもうダメになっていたけれど、その頃は読んだ本の記憶はまだあったと思うし、何よりも持ち前の好奇心が旺盛だったからでしょう、興味深そうに聞いていました。あれから満6年経ちます。

 体長40cm程のフクラギを買いました。出世魚のブリの幼年名です。たった480円でした。
 鱗を除いて3枚におろし、皮をひいて刺身の柵が4個とれました。アラを大根と煮ました。刺身は半分冷凍にしました。刺身とアラ煮と併せて6回分の主菜が出来ました。エラだけ除いて頭を半分にして、2回分の船場汁の材料になりました。豆腐や何品かの野菜と海藻などで一汁四菜か五菜のおかずはできます。
みそ汁は煮干しのだしをとって、赤味噌と白味噌を合わせます。和子が好きだった麦ご飯を今は一人で食べています。食べてくれる相手が急に居なくなった(6月に急に入所が決まりました)現実にメゲそうになったけれど、「貧すれば鈍す」にはなるまいと、気を取り直してもう4ヶ月です。                   

 小樽のホールで開かれた、ロシアの若いピアニストのコンサートに行きました。和子の病気がわかってから、一人でコンサートに行くのは初めてです。
 今年はショパン没後150年で、FM放送で聴く機会も多かったので、急にショパンを聴きたくなりました。休憩時間に、札幌時代の知人とバッタリ出会いました。十年ぶりぐらいです。昔の和子を知っている人なので、コンサートのあと少し話し、家まで車で送ってもらって『介護日記』の今までの分を全部渡しました。
後日電話があり、「アルツハイマー病がこんなに大変な病気とは知りませんでした」と彼女は言いました。

 週に一回ぐらい小樽の外科医院に腰のハリ治療に通っています。札幌西高の教え子がその病院で物療士をしています。3年前、近くのスーパーの駐車場でバッタリ出会いました。2年生の彼の物理の授業を担当してから15年ぶりの再会でした。
 私は慢性の腰痛で、「ハリが効く」とは前から人に聞いていました。和子を連れていくしかなかったので、一緒に行きました。ちょうど『介護日記』を書き始めて間もなくだったので、渡して読んでもらいました。前回書いた歯医者さんと同様に、彼も和子の病気の進行を見守ってきてくれた一人です。
 治療の間、彼は待合室に行って和子に「先生もうじき終わりますからね」と声を掛けてくれたり、彼女の病気が進んでからは治療中の私が彼女と手を継なげる様に、治療台のカーテンの中に椅子を用意してくれたりしました。2年前の9月からはデイ・サービスが利用できるようになったので、私一人で行けるようになりましたが。

  札幌の教え子から「あまりがんばらないで、風に吹かれて家にいらっしゃいませんか」という心優しい便りがありました。「”頑張る”とは言うまい」と心に誓ってから何年も経ちます。「張りすぎた弓の糸は切れやすいと言います」と、昔知り合った頃手紙に彼女が書いてきたのを思い出します。

 去年から小樽市内の教師のOB・OG合唱団に参加して歌っています。せめて彼女と一緒に歌うために声を出したいと思ったからです。
 そこの女声(ソプラノ)の方に、たまたま和子のことをお話する機会があって『介護日記』を読んでいただきました。その方が団員のお友達の方達に話してくださって、何人かで交替でホームに歌いにきてくださいます。ソプラノの和子(元はアルトだったのですが)とアルトの方の合唱もできて、2ヶ月前には考えられなかった幸せな時間が出来ました。
会話が全く出来なくなった彼女も「歌うという会話で通じ合えること」が実感できます。
おそらく日本の施設で今まで実現できていなかった”音楽療法”なのでしょう。

彼女の「記憶の引き出し」の中から、歌はいくらでも出てきます。

  

 和子の病気がわかって7年余り、本当にたくさんの人たちに支えられて生きてきたと、痛切に思います。私は、ここしばらく前から胸のアタックが続き、用心のため教え子のドクターが居る病院に検査入院します。
 また1年を何とか無事に過ごせました。年が明けたら続きを書きます。
 どうか良い年をお迎えください。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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