2000年1月6日 

 

 小樽は年末から雪のなかです。晴れた日にホームの玄関から見下ろすと、白銀の世界の向こうに日本海が見えて、なかなか贅沢な風景です。和子が居る部屋からは見えませんが。

 国道はアスファルトが出ているけれど、ホームへの急な坂道はここ1ヶ月ずっと雪の下です。斜度17%もある、小樽でも有数の坂の上(山の上)にホームはあります。四輪駆動車で坂は上れますが、下りはスリップするのでたいへんです。
 3年前の2月初め、2週間に一度のショートステイが利用できることになったとき、以前乗っていた前輪駆動車では坂を上れず、坂の下に車を置いて吹雪の中を和子の手を引いて歩いて上がったこともありました。
 四輪駆動車に買い換えて二冬過ぎ、今年は三冬目です。
週末と週初めの2回通っていたときと違い、この冬は私が毎日通うので、冬のこの坂道の凄さが身にしみます。

 年末にホームの介護のスタッフの助けを借りて、久しぶりに和子の髪を染めました。
 お正月は、家からおしゃれなブラウスを運んで、日替わりで着替え、ブローチやネックレスも付けました。おしゃれがとても上手だった彼女の代わりに、うまくコーディネートができたか、自信はないのですが(他人のおしゃれの批評はできるけれど、スタイリストはむつかしいのです)。
 でも若々しくなって笑顔もいっぱいあった、和子と私の素敵なお正月でした。

 6月に入所が急に決まったとき、和子の髪を家で染めました。3ヶ月に1度ぐらいやっていたヘアダイも、染めた後洗うのがだんだん大変になり、洗う途中で休憩を入れて、歌いながらおやつを食べたりして、何とかやってきました。
 9月末ホームのワーカーが、「床屋さんが来ますから、やってもらいましょうか」というので、頼みました。
 それが日曜日で私は行けなかったのですが、翌月曜日に行ったらデイルームのベンチに和子が座って、ずっと下を向いていました。手を額に添えて顔を上げさせようとすると「痛い!」と叫びます。その日の介護スタッフに聞いても原因が判らず、ナースがマッサージをして、炎症止めの軟膏をつけてくれていたようです。
 相談室に行ってワーカーに代金を払ったときも何も言われませんでした。介護や看護のサイドでは「寝違いかも」と判断していたようです。かつて無かったことなので介護のチーフに会って、前日のヘアダイの時の様子を調べてもらいました。
 翌日チーフに会って結果を聞きました。床屋さんご夫妻がかかりきりで大変だったらしく、「2度とお断りです」と言われたそうです。
 介護のスタッフが居ない密室の出来事だったようです。相談室にも結果は伝わっていて、「和子さんが嫌がることはやめることですね」と言われました。
 私はイソップの『太陽と北風』の話を一瞬思い出しました。洗わせまいと頑張る和子と、何とか洗おうとする床屋さんご夫妻の状況が手に取るように判りました。
 150人の入所者の半数の方が痴呆の症状があるという施設だし、相談室でも「ホームでも出来ますよ」と言われたし、「プロなんだから」と思った私が迂闊でした。
 私は「家では嫌がらせないように出来ていたのに・・」と思いましたが、”老いて施設に棲む”事実の重さが胸に残りました。頚の”しこり”は10日ほどかかって、すっかり元に戻りました。
 

 私はひそかに『和子のヘアダイ大事件 ・1999』と呼んでいます。

 

12月になって介護のスタッフの一人から「お正月ですし、和子さん髪を染めたらどうでしょう」と言われました。「浴室でストレッチャーに仰向けに寝ていただいたら如何でしょうか」と。
 浴室の空いている日と時間とを打ち合わせて、全部準備してホームに出向きました。ラジカセを用意して、浴室で椅子に彼女を座らせて、「日本の叙情歌」のテープをかけながら染めました。
 私が歌い、会話にならない会話をしながら20分程時間をおき、ストレッチャーに仰向けに寝かせて、ベルトで軽く固定しました。仰向けなので和子は目を開けたままで、そのスタッフに和子の両耳を塞いでもらって、ゆっくり洗いました。和子は一度も不安定にならず、テープに合わせて少し鼻歌風に歌ったりしていて、ずっと上機嫌でした。
 うちでは、洗面化粧台で彼女に目をつぶってもらわなければならず、ここ1年程はずいぶん大変でした。「はい、目をつぶって」という言葉は彼女に聞こえていても、”失認識”と言われる状態ですから。9月末の密室での状況は”推して知るべし”です。

 12月22日が冬至で、和子の”暁の家出”から満3年でした。氷点下の雪道を裸足で歩いて・・。
よくぞ生きて帰ってきてくれたと、今でも胸が熱くなります。

 11月頃から、きちんと声を出して歌えない状態が続いています。そのことを書いてやった教え子(高校2年のころから我が家にきていました。今はピアノ教師です)からの年賀状に「奥様から歌がなくなる日が来るとは信じたくありませんでした。・・でも方法を忘れてしまっただけだと思っています」と書いてきました。
 そのとおりのようで、お正月にホームで出会った入所者の家族の方から所望されて少し歌ったとき、以前のような伸びやかな声とは違うけれど、私と一緒に『故郷を離れる歌』を3番まで歌いました。方法を忘れても、彼女の”歌ごころ”はまだ大丈夫です。
 知り合って半年目ぐらいの手紙の中に、「”歌ごころ”なら誰にも負けません」と書いて来たのを覚えています。控えめな彼女だったので、忘れません。

 冬も半分過ぎました。また元気で過ごしていきます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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