2000年1月18日 

 

 1月17日、阪神大震災から満5年経ちました。大切な人を亡くされた方、ケガをされた方、家を失った方、それぞれどんな痛切な思いでこの日を迎えられただろうかと思います。

 私もあの日の和子のことが忘れられません。あの日、私たちはゆっくり起きて朝食を食べながら、いつものようにFMでクラシック音楽を聴いていました。10時過ぎでしたか、音楽が中断して「地震の安否情報を放送します」というアナウンスにびっくりしてテレビをつけました。5時間前に起きていた大災害に息を呑みました。
 一緒に見ていた和子も、「何ということ・・・」と絶句していました。
 そのことが和子のメモリーに残るのに数日かかりました。
彼女の新しい記憶が駄目になったことは、その2年余り前に判ったことです。でも、こんな鮮烈な大災害のニュースさえ(新聞の大見出しとテレビで、繰り返し目から飛び込んでくるのに)、彼女の記憶に残らないことが判って、ひどいショックでした。

 あれから満5年、ついこの間の出来事のようにも思えます。いろいろあったけれど、私たちは何とか無事に生きてきました。

 10月末頃、私の胸の強いアタック(発作)が何回かありました。明け方熟睡中でした。起きてニトロ舌下錠を舐めると治まりました。
 主治医に報告したら「明け方に発作があるのは、れん縮型狭心症の典型ですね」と言われました。
 熟睡中の発作は9年振りのことなので、気になって札幌の病院の心臓血管センターにいる教え子の心臓外科医に相談しました。「うちの心臓内科で検査をしましょうか。僕が主治医になりますから」と言われて、11月はじめ2泊入院でカテーテル、シンチなどひととおりの検査をしました。
 9年前の検査は、別の病院でしたが2週間かかりましたから、検査技術も進んだと実感しました。結果はCDに記録されて、翌日心臓内科のドクターから詳しい説明を受けました。「動脈硬化は無いですし、良い血管ですよ」と言われました。
 それでも寒さとストレスで発作は起きるので、薬を使って病気と折り合っていくしかありません。でも心配していた「動脈硬化が進んで心筋梗塞予備軍になったのでは?」という疑いは取りあえず晴れたので、ずいぶん気持ちは楽になりました。
 狭心症だと判ってまる9年ですから、「まあ、いい線いってるのかな」というところです。
 食事には気を付けて、昔風のお総菜を自分で作って食べています。もう何十年来そうです。添加物の多い物やコレステロールの高い食品は食べないし、教え子の保健婦から「先生のは健康食ですよ」と言われています。いわゆる嗜好食品は食べないし、お酒も家では全く飲みません。

 和子はホームに入ってずいぶん痩せました。6月から11月までの間に体重が42キロから38キロに減りました。偏食はなく何でも食べる和子だったし、3年前の胆嚢摘出手術以来少しずつ体重は快復していました。
 食事の時こぼすらしく、半介助を全介助に変えてもらいました。家では全介助だったのですから。

 和子がほとんど歌わなくなりました。この頃はホームの応接室を二人で使うことが多く、私がテープに合わせて歌ったり、ビデオテープを持って行ってオペラを見たりして時間を過ごします。
 その間彼女は全身でリズムをとっていて、極くたまに彼女の口から歌のフレーズが出てきます。それが『フィガロの結婚』や『トスカ』のアリアだったり、『からたちの花』や『歌の翼に』だったりするのですが。

 

 去年11月、ホームのワーカーから、「和子さんはもう後藤さんを夫とは判らないようですし、後藤さんも覚悟をなさった方がお二人にとっていいのでは」と言われました。
「ただいま覚悟をしましたと言ってそうなるものでもないから、私の心に諦念が棲みつくのを待つしかないですねえ」と答えたのですが、2ヶ月経った今も私の中には諦念はありません。
 毎日会いに行っても、会うたびに私の胸はときめきます。言葉が無くても通じ合える時間を共有していた三十数年前を思い出しています。

 正月明けに、もう「三重の菜花」を買いました。去年は2月でしたから今年は暖かいのでしょうか。
 今年は私だけでホロ苦い春の便りを味わいました。小樽はこの冬まだ豪雪はなく、このまま過ぎればいいけれど、地球レベルの天候異変の感じもあります。
「降るべきものが降らないのは、どこかおかしい」という人もいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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