'99年10月4日

 

 北海道に素敵な秋が来ました。最高気温20度、空気が澄んで青空に浮かぶ雲、部屋のベランダから風にそよぐススキの穂が見えます。9月24日の十五夜は気付かないままでした。その日付の教え子からの便りで知りました。

 天気の良い日はホームの玄関まで連れて出て、駐車場の車の座席に何とか座らせて歌を歌ったりします。笑顔はあるし歌も歌えるけれど、私だけではもうどこにも連れて行けません。
小脳に萎縮がきて運動中枢が犯されたのでは無さそうだけれど、歩くのもとても不安定で、彼女の安全領域は段差のないホームの廊下だけになってしまったようです。秋の空気を吸いに公園に連れて行けないのが何とも残念です。

    

 ロバート・デ・ニーロが主演した『レナードの朝』というアメリカ映画がありました。精神病院の半昏睡状態の患者たちと一医師の、病気との闘いを描いたヒューマンな映画でした。
 薬で少し状態が良くなった女性患者の一人が突然『懐かしき愛の歌』というイギリス民謡を歌い始めます。すると集まっていた別の患者の一人がピアノで伴奏を始めるというシーンがあります。
実話をもとに作った映画だそうですが、同じ患者なのに、アメリカと日本の患者の置かれている環境の差に驚きます。

    

 小樽駅前の歯医者さんに行きました。3ヶ月に一回ぐらい定期検査に行きます(私の歯は戦争末期の灯火管制で真っ暗な夜、防空壕の枠の丸太にぶつかってへし折った前歯3本以外は自分の歯です)。いつもの有線のクラシックが静かに流れていました。この日はモーツアルトとシューベルトでした。
小樽に来て5年余り和子と二人でここにかかっていました。ドクターも歯科衛生士たちも丁寧で笑顔を絶やさず、和子の病気の進行と意味不明の会話にも付き合ってくれていました。和子はここが好きでお気に入りの衛生士の顔を見ると、それだけで表情が和んで笑顔を見せたものです。「ケアとは本来こういうものなのだ」と思った記憶があります。

 有線放送のモーツアルトのBGMを聴きながら治療を受けていて、「和子はもうここに連れて来られないんだ」と改めて思いました。ホームにも歯医者さんはくるけれど、モーツアルトのBGMは無いし、いつもどこかの部屋から何種類ものテレビの音と、生活騒音が聞こえてきます。
私は毎日大部分の時間をクラシックを聴いて過ごしていますが、そういう条件がゼロの和子のことを考えると心が痛みます。「老いて(と言っても和子はまだ62歳です)施設に住む」とはこういうことなのかと、一日中考えます。

    

 FMのN響生演奏で、盲目のピアニスト梯剛之が弾くラヴェルのピアノ協奏曲を聴きました。とても活き活きして、心にしみるラヴェルでした。わざわざ「盲目の」と書くことが差別的ではとも思うけれど、だいぶ前に彼のことを扱ったドキュメンタリーで、お母さんが話したことを忘れられません。
 「障害があることより、社会が閉じていることの方が大変だった」と。小・中学校を普通の子どもとして通わせようとしたのに、学校側が要求したのは、点字教材を全部親の側が用意することでした。
でも中学を卒業したら、音楽科も含めて受け入れてくれる高校が全くなく、そんなバリアーが無いウイーンに留学したというのです。そして去年ロンティボー・コンクールで2位になってヨーロッパ・デビューを果たし、マスコミでも取り上げられました。私が聴いたのはN響との初共演でした。
 才能があっても、バリアーがあってそれを活かす場がない、これは昔の話ではなく、いまの日本の話です。言いたい放題を言わしてもらえば、彼の入学を断った音楽高校は、今になって「掌中の玉」を逃したことを悔やんでいるのではないかと、勝手に思います。
 30年余り高校の教師をしていて、もちろん才能と能力が全てなどと思ったことはありません。才能や能力を活かせる条件を誰でも持っているわけではないから。でも、それがあるのに、活かすことが出来ない国を、”悲しい国”だと私は思います。

    

 去年、用事があって一人で仙台に行ったとき、和子の大学時代の恩師を訪ねました。声楽科で和子を受け持たれたあと、病気でしばらく休職なさったのですが、和子が北海道の高校教師になったことを聞かれて、「ソリストへの道もあったのでは・・と私は思っていました」と言われたのに私がショックを受けました。
 私は理科と数学の、彼女は音楽の教師という専門の違いに過ぎない、でも音楽を“わかり合える、感じ合える”だけで十分だと思っていました。改めて彼女の40年前の卒業演奏のテープを聴きました。22歳でシューベルトをひたむきに歌っている彼女の4年間の努力と、並でない才能を感じました。
 その恩師に和子のそのテープを差し上げたのですが、「学生達に、こんなに歌ってる先輩の歌を聴かせてやります」と、おっしゃって下さいました。
 「ソリストの才能」など思ってもいませんでした。彼女は控えめで、「6人きょうだいで弟2人と妹がいるから、音楽大学に4年行かせてもらっただけで有り難かった」と言っていました。
私が大学4年のうち3年を、ほとんど自活したことを話していたからなのかも知れません。何年かして一緒に生活を始め、30年余り働き続けて彼女は病気になりました。もう、時々は私を夫だとは認識できない状態になったけど、彼女には歌が残りました。
病気が進んで重度になった今でも、歌のメロディーが正確に出てくるのは、彼女が神様から貰った才能なのでしょう。古い記憶もすっかり失って、自分が誰かも判らなくなった今も、大学時代に勉強した歌曲のラテン語の歌詞もイタリア語の歌詞もドイツ語の歌詞も時々出てきます。
 22歳で大学を卒業して40年以上経ち、その間きちんと発声の訓練をする機会など無かったはずなのに、伸びやかな声は多分昔のままなのでしょう。

    

 毎年季節の変わり目のこの時期に、胸のアタックがあります。部屋を暖かくしてしのいで行きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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