〈札幌を離れるまで 〜'92.3〉           

 1990年末。私が数日間心臓の発作に襲われる。締めつけられるような痛みで、脂汗をかく程痛い。発作はきまって夜中に起き、昼間はウソの様に跡形もない。教え子である札幌西高28期の女医のMに相談する。できるだけ早く入院検査が必要と言われる。翌'91年3月、勤めていた子ども図書館の仕事を何とか片付け、札幌の勤医協中央病院の循環器科に検査入院する。心臓カテーテル検査などをした結果、『冠れん縮性狭心症』と診断される。『労作性狭心症』と比べて、安静時に起きるので、『静止型狭心症』とも、『異型狭心症』(発症例が少ないらしい)とも言うらしい。

 親(妻・和子の母親が宮城県に健在)も、双方のきょうだいも本州住まいなので、「いずれ“終の栖”はむこうに…」などと話していた。「寒さとストレスがよくない」と言われたこともあり、次男の高校卒業を期に、仕事を辞めて本州移住を実行することに決める。'91年秋、前から持っていた伊豆の土地(別荘地)に家を建てることにして、教え子の女性建築家Iに設計を依頼する。札幌にいる彼女は、設計から施工管理までを「自分の勉強のために」交通費だけで引き受けてくれるという。

 この頃、私が仕事から夕方帰宅すると、和子がテレビをつけたまま、見るともなしにボンやりしていることが多くなる。私の仕事が週4日で楽なこともあり、夕食の準備も翌日の弁当(私と息子のふたり分)作りも私がする様になる。「長年の共働きで、彼女、少し疲れが出たのかな」などと考えたりする。東京の長男が、とりあえず社宅を借りられるというので、伊豆の家ができるまで同居することにして、札幌の家と土地を売りに出す。

 買い主が決まり、'92年3月末に家を引き渡すことにして、2月末から引っ越しの準備にかかる。荷物の大部分を札幌の日通倉庫に預け、残りを東京に持っていくことにして整理を始める。この時点で、彼女が、荷物の分類をしてダンボールに分けて詰める作業がほとんどできないことに気付く。ひとつひとつ手渡せば、箱の隅から詰めていくことはできるが、任せると他の種類のものも全部ひとつの箱に詰めてしまう(食器も雑貨も衣類もひとつの箱に)。日通に予約した引っ越しの日が近づき、パニック状態になりながら次男とふたりで何とか間に合わせる。

 

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