●1936年函館市で出生。父は市立病院医師。
●4歳の春、父の郷里の宮城県北の町に転居。父はここで内科医院を開業したが、最後まで医院にはレントゲン設備のないびんぼう町医者。彼女はこの町で県立高校を卒業するまでを過ごす。
●中学〜高校時代は、音楽部で合唱をし、美術部で絵を画き、詩や小説を綴り、“芸術少女”と言われたりしたらしい。
●高3の時、音大を受けることがきまり、家にピアノがはいる。
●1955年に宮城学院女子大学音楽科に入学。声楽を専攻。ほぼ4年間寮生活で、ひたすら声楽を勉強した様子。この頃の楽譜の表紙ウラに、「声は自分で作らねば」などという書き込みがある。
●1958年12月には卒業演奏会で、シューベルトの歌曲集『白鳥の歌』全14曲中10曲を歌う(ほぼ40年後の1997年、その時の録音テープの復元ができる。—奇しくもこの年は、シューベルト生誕200年記念の年)。
●このあと、仙台で北海道立高校教員の2次試験を受ける。
●1959年4月に道東オホーツク海岸の町、斜里高校音楽教師として赴任。さいはてのこの町は、十数年後に加藤登紀子の『知床旅情』で有名になる。当時、仙台からここまで夜行列車を乗り継いで2昼夜かかったという。
●1962年4月、2校目の赴任先である道央の美唄の職業高校で、転勤してきた私と出会う。私は理科(物理・地学)の教師で、その頃、彼女とは音楽のことがわかりあえる同志という間柄だった。
●その後2年が過ぎて、先に札幌に転勤した私と、生活を共にすることをきめるが、転勤が無理なのでいったん退職して生活を始める。
彼女は音楽教師をライフ・ワークとして考えていた。そのため、2児(長男、長女)出産後、高校の講師をしながらヤマハ・エレクトーン教室で講師の資格をとり、ヤマハ音楽教室での仕事のかたわら自宅でも子ども達に教えていた。1992年に札幌を離れるまでの30年弱音楽の教師を続ける。
●この間、1983〜1988年には私が室蘭に単身赴任。1992年の東京の病院の検査所見では、その時期ぐらいに彼女が発病していた可能性があり、当時、私は家事からも育児からも解放された独身貴族で楽をしたのが悔やまれる。
以下〈レポート〉につづく。
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