〈東京での生活・その1 〜'92.6〉

— 3月 —

 '92年3月末、東京都田無市の長男の社宅に転居。古い武蔵野の面影がまだ残る地域で、周囲は畠や樹木園が多い。道は昔のままのものが多く、曲がりくねって複雑でわかりづらい。社宅のアパート(11階建の10階に住んだ)のすぐ近く(歩いて5分ぐらい)に小さな市場がある。何度も一緒に行った後、何日か後に彼女に買い物を頼むと、「迷っちゃった」と言って、30分以上かかって帰ったりする。市場の前からアパートの大きな建物は見えるのだが。新しい土地は覚えにくいのだろうと考えて、外出はすべて一緒にすることにするが、地理は全く覚えられない様子。

 当座のものを買うためにバスで吉祥寺に出たり、そのまま電車で美術館に行ったり、近くを通る多摩湖自転車道を歩いたりという毎日を始める。2カ月も経った頃、吉祥寺駅でバスを降り、『吉祥寺駅』という駅ビルの看板を見て、「私、ここ初めてだね」と言うのに愕然とする。10数回は同じ場所で降りているのに。住所も電話番号も覚えていないことにも気付く。ハンドバックに入れている手帳に書いて、彼女が見ればわかる様にする。台所が狭くふたりで立てないこともあり、食事の準備はほとんど私がする。野菜を切る程度手伝ってもらう。しかし、味付けを頼むと塩を2度入れたりして食べられなくなったりする。野菜を刻む手付きは、以前とは変わらず巧みだが、2種類のこと(“にんじんの千切り”と“ねぎのみじん”など)を同時に頼むとどうしていいかわからなくなる。

— 5月 —

 5月、私が東京駅の新幹線ホームまで見送って、ひとりで宮城県の実家へ行く。何泊かして帰る日、実家の妹から「今、新幹線に乗りました」と電話がある。「東京駅から中央線のオレンジの電車に乗って吉祥寺で降りる。駅前の1番乗り場のバスで終点まで」と、書いた紙を手帳にはさんでおく。そろそろ帰る頃と思っていると、電話が鳴って「吉祥寺から歩いてきたら道がわからなくなった。どこに居るのかわからない」と。吉祥寺からは6キロもあり、歩いたことなど一度もない。タクシーは時々走っているというので、手帳の住所を言って帰ってくるように話す。心配しながら待っていると、30分余りして心細そうな顔をして帰ってきた。

— 6月 —

 6月初め、彼女の中学時代の同期会が福島県の磐梯熱海であり、東京組の集合場所である東京駅まで見送る。1泊して今度は無事、東京駅から電車・バスを乗り継いで帰る。1週間ぐらいして在京の幹事から電話があり(たまたま私が出たが)、「失礼ですが、和子さんが宿泊代の持ち合わせがないというお話しで、東京のAさんがお立て替えしたのですが、まだお送り頂いていないそうです」と。又、愕然とする。電話で詫びを言って和子に聞くが、「借りた記憶は全然ない」と言う。彼女が寝た後財布を調べると、私が交通費の他に持たせた会費分はそのまま残っている。翌日、詫状を書かせて現金書留で送るが、彼女は「私、覚えてないけどなぁ」と腑に落ちない様子。

 6月、彼女は常磐線牛久の友人宅に合唱の練習に、私は千葉県市原の教え子Yを訪問するため、上野始発の電車まで彼女を送る。当日夜、お茶の水の日佛会館で朝日新聞元論説主幹の松山幸雄氏の講演会があり、夕方6時東京駅で会うことにする。午後、Yの家から牛久に電話して、待ち合わせの時間と場所を確認する。間に合わなければ日佛会館で会う約束で、お茶の水周辺の地図をコピーして渡してあった。東京駅で30分待ったが彼女は現われず、日佛会館に行くが講演会が終わるまで彼女は来ない。4月・5月と2度日佛会館には行っており、この日で3度目。急いで帰路につき、9時半頃アパートに着くが、彼女は帰っていない。心配でどう仕様もなく、30分待って止むなく牛久の友人宅に電話しようと思った時、電話が鳴る。「田無駅に居ます。乗った電車が国分寺を通過して、遅くなっちゃった」と。急いで自転車で西武線田無駅に向かう。夜10時過ぎ、田無駅改札口で、疲れ切った表情の彼女を見つける。夕方6時頃(多分)から4時間もの間、夕食を食べた様子もなく、彼女がどこをさまよっていたのか遂にわからずじまい。山手線から高田馬場乗換で西武線で田無に着くルートは国分寺を通らず、JRの国分寺駅を通過する電車はない。「何度も電話したんだけど、あなたが出なかった」と彼女は言うが、もちろん、その時間、私は外で彼女を待ち続けてアパートには帰っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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