《左側の3本の木》 《チュー太の介護日記》 《右側の2本の木》

 2013年11月30日 北大のイチョウ並木散歩

 知人と3人一緒に、素敵に晴れた日の午後、地下鉄を乗り継いで北大の構内を歩きました。途中で痰がからむこともなく、和子は気持ちよさそうでした。平日の夕方だったので観光客も多くはなく、熟れた銀杏の匂いもしていました。イチョウの葉の間からの木漏れ日がきれいでした。

 ご一緒して下さった方にお許しを得て、和子と一緒の写真(携帯で撮った)も載せました。教え子の友人で、数年前から美術館や路地歩きや、和子を連れ出す時に付き合ってくださいます。イチョウの葉が落ちたら、黄色の葉に敷き詰められた構内をまた歩きたかったのですが、11月になって急に寒くなり、実現しませんでした。

北大イチョウ並木で

和子さん、ポーズをとって、秋の美しさの中で凛とされています。

 世の中は、こんなにのんびりしたことを書いていられないような、内憂外患に満ちてます。「特定秘密保護法案」、札幌でも連日のように反対・抗議デモが続いていますが、私は和子を終日診ているので、夜間や土日の集会には行けません。

 前の戦争が終わったとき私は15歳でした。1941年末の真珠湾攻撃のときは11歳、国民学校(小学校)の5年生でした。翌42年6月のミッドウェイ海戦、大本営は日本軍の大勝利と戦果を報じて祝賀行事(デモ行進ならぬ愛国婦人会の日の丸の旗行列)までありました。岐阜市に住んでいたのですが、民家の壁の至る所に「壁に耳あり、障子に目あり」(スパイに気をつけろ)というビラが貼ってありました。
 強力な言論統制下にあったのに、不思議なことに、ミッドウェイ海戦は大本営の発表と全逆の大敗北だという噂が、どこからともなく流れてくるのです。子ども達は聞き込んで、家で話すから、母から「シー(と口に手を当てて)誰かに聞かれたら大変だよ」と叱られたことを忘れません。

 戦後判ったことは、その時連合艦隊は空母・潜水艦をはじめとする主力軍艦と戦闘機爆撃機の多くを失い、そのあと敗戦までの3年間はひたすら消耗戦だったようです。私の長兄は、千島(今はロシア領;これはヤルタ協定でルーズヴェルト・チャーチル・スターリンが決めたことです)で軍用飛行場の建設に兵として動員され、仕事が終わって輸送船3隻で本土に引き揚げる途中、真昼のオホーツク海上でアメリカの潜水鑑の魚雷攻撃で前と後の輸送船が目の前で沈没し、駆逐艦の護衛で命からがら北海道の計根別沖まで来て、艀(はしけ)で計根別(けねべつ)の駐屯地に上陸したそうです。沈んだ僚船2隻の乗員は「全員溺死だろう」と言っていました。
 3兄は静岡県三島市の砲兵連隊に居たのですが、大砲を牽く馬(自動車なんかは無かったそうです)に眉間を蹴られ陸軍病院に入院しました。その留守中に本隊に南方への出動命令が出て、護衛艦の援護もなく東シナ海で撃沈されたそうです。次兄も4兄も戦争世代ですが、無事生還して、天寿を全うして亡くなりました。4人の兄たちが戦中世代で、誰も死ななかったことが、奇蹟のように思えます。

 教員組合の仲間だった友人がいました。肝胆相通じる男でしたが、先頃肺ガンで亡くりました。私より5年若かったのですが、残念です。その彼は、出征したお父さんの戦死公報が届いた時、9歳だったそうです。フィリピンで、37歳名誉の戦病死という公報のことを、彼は「きっと餓死したのでしょう」とメールに書いて来ました。無謀な戦争の傷跡は死屍累々です。

 パールハーバーで主力艦隊の多数を失ったアメリカは、総動員態勢で軍艦と軍用機を産し、1年後には日本を数倍上回る軍備と兵士の量産を成し遂げていました。日本は陸軍大学出身の、実戦経験のないエリート官僚が参謀本部の要職につき、戦争を取り仕切っていました。ミッドウェイ海戦以後の日本は、ひたすら消耗戦でした。ガダルカナル島(ガ島=飢島とも後に言われました)・硫黄島(クリント・イーストウッド監督が『硫黄島からの手紙』で描いています)・サイパン・ルソン・ニューギニア・インパール・・・食料も武器もなく、置き去りにされて餓死した日本兵は何十万に上るか。ノンフィクション作家・高木俊郎の『抗命』『戦死』『全滅』『憤死』などインパール5部作、『陸軍特別攻撃隊』1~3、などなど、ずいぶん、たくさんの本を読み、反応のある生徒にも読ませました。彼らは来年還暦を迎えます。

 福島原発1号機の燃料棒取り出しが始まりました。容器に入れてクレーンで空中を運び敷地内の別の場所に移す。アブナクテ見ていられません。イヴ・モンタンの有名な『恐怖の報酬』を思い出します。油田が大火災になり、それを消すために高給で雇われた二人の命知らずが、トラックにニトログリセリンの容器を満載して現場に急行して消化に成功。大金を手にして家に帰る途中、運転を誤って谷底に転落して一巻のの終わりというストーリーでした。

 1954年生まれの安倍首相の言動に、私は1954年のこの映画を思い出してならないので。今の作業が順調に行って来年12月。そのあと壊滅状態の1号~3号機をどうするのか。こんな情報まで特定秘密に指定しかねない勢いです。

 戦後生まれの政治家の火遊びにまで付き合わされるのはかなわない。俳優を引退した菅原文太さんが、「『特定秘密保護』という物騒な言葉に、なんとも言えない違和感をおぼえる」と言っています。こういうことに発言をする人じゃなかった。私より3歳下。言わば戦中派最後の世代の意地でしょう。

 政治家も3代目ともなれば、危機意識の全くない孫が出てくるのか。祖父の岸信介も父安倍晋太郎も私の価値観とは対極にあったけれど、今となれば「敵ながら・・」という感じもします。既に鬼籍にある彼らはどう思うだろうと考えます。ごり押しで衆議院を通し、来週参議院で通して法案成立の見込みだそうです。

 自民党の圧倒的勝利と言われた去年の衆院選挙。小選挙区で自民党候補の名を書いたのは全有権者の約4分の1の26.67%、比例代表に至っては15.99%。1票の格差と、小選挙区制度と低投票率のマジックで当選者が多かったに過ぎません。
 そのあとの今年の参院選、今日(2013.11.28)広島高裁岡山支部で、1票の格差について、『違憲・即時無効とする』という判決が出ました。参院選で選挙無効の判決が出たのは戦後初。弁護士グループは全47選挙区を対象に選挙無効訴訟を起こしていて、このあと12月26日までに14高裁・支部判決が出そろう、と朝日新聞夕刊は報じています。
 去年10月の最高裁判決の『違憲状態』ではなく、今日の判決は『違憲・即時無効とする』です。選管は上告するでしょう。でも私は、三権分立をまるで無視している今の安倍政権の無軌道な独裁ぶりを止めるのは、法の番人である最高裁の義務だと思います。