《左側の3本の木》 《チュー太の介護日記》 《右側の2本の木》

 2013年8月31日 戦後68年目の8月の終わりに 

 戦争が終わって68年、その時私は15歳でした。住んでいた岐阜市が7月9日深夜の空襲で8割が消滅、死者約800名、通っていた大垣工業学校(旧制)は7月12日深夜の空襲で校舎消滅、市内に住んでいた級友の何人かは焼けた大垣城の堀に頭を沈めて火炎から逃れたと後から聞きました。私たちは学徒動員で、軍需物資を運ぶ唯一の動脈・東海道本線が揖斐川にかかる鉄橋の迂回路を作るために、炎天下トロッコ押しの作業をしていました。8月15日までの数十日は毎日晴で、灼熱の太陽が照りつけていました。その作業中に、毎日アメリカのグラマン戦闘機が急降下で降りてきて、機銃掃射を浴びせました。生徒の中に死傷者は出なかったけれど、一緒にトロッコ押しをしていた兵隊さんの何人かが亡くなりました。戦後の記録ではグラマンは地上30メートルまで急降下したと知りました。地面にはいつくばりながら、チラと上を見ました。若いアメリカ兵の顔が見えました。
 戦時中「戦地」という言葉に対して「銃後の守り」という言葉がありましたが、私の実感では「銃後」どころではなく、砲煙弾雨の中を辛くも生き延びたという思いです。

 今年も8月はテレビや新聞では戦後68年をふり返る番組や特集が掲載されました。その中に「少年兵」のことが何回か出てきました。その頃義務教育は尋常高等小学校(1942年頃からは国民学校)の尋常科6年、高等科2年でした。その高等科の卒業(14歳)の前に、担任の教師が生徒に「少年兵」の勧誘をしていたようなのです。おそらく担任には、ノルマ或いは努力目標が課されていたのでしょう。
 しかし高等科1年から工業学校に進んだ私は、そういう勧誘を受けた記憶が無いのです。でも昭和19年(1944年)に新設の大垣市立工業学校の電気通信科・入学式で、校長が「お前達は爆撃機の通信機担当乗員として、お国のために働いてもらう」という訓辞をした記憶があります。国民学校(12歳)のあと工業学校5年で17歳です。あの時代、戦況は悪化し、大学も繰り上げ卒業で、あの有名な神宮競技場での雨中の出陣式もありました。繰り上げ卒業などいくらでもあったろうし、やはり少年兵要員養成のために作られた学校でした。実際は翌年8月、たった1年5ヶ月足らずで敗戦を迎えたのでしたが。
 「神国日本」「天皇陛下の御(おん)ために命を投げ出す」ことが、少年にまで強要されました。戦後になって昭和天皇は人間天皇になったけれど、自身の戦争責任については「そういう文学的な・・・」などと言って曖昧にしたままでした。しかし1936年(昭和11年)の2.26事件では「朕(ちん)が股肱(ここう)の重臣を」と烈火のごとく怒り、厳重な処分を命じたという事実からも、彼が大元帥として確かな指揮権を持っていたことは明らかでしょう。少年期、天皇のために死ぬことを強要されてきた世代として、彼は戦争の責任を取るべきだったと、今でも思います。

 アメリカの映画監督オリバーストーンが初めてこの夏、来日しました。彼は自分のベトナム戦争従軍体験から、映画『7月4日に生まれて』や『プラトーン』を作ったと言われています。ヒロシマやナガサキを見たあとの彼のコメントが印象に残りました。


これからの時代を生きていくには、地球全体の意思を尊重し、核戦争の危機や地球温暖化の脅威と戦わなければなりません。私たちは例外主義や傲慢さを捨て、”他国よりアメリカの加護を”と祈るのをやめられるでしょうか?強硬派や国家主義者のやり方が通用しないことは、、もはや明らかです。法を順守しアメリカ建国の精神に立ちかえり、意見の違いを超えて大切なものを守るのです。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスはこう記しました、『歴史は人間が成し遂げたことが忘れ去られないよう願って書かれた』。人類の歴史には戦争や死の記録だけでなく、誇りや成功、優しさ、思い出、そして文明が刻まれているのです。
過去を振り返ることから未来への道は開けます。そして赤ん坊のように一歩ずつ高みへと上っていくのです。

目を覆いたくなるニュースが目に飛び込んできます。

 戦後68年を生きてきて、今ほど危機感を感じた時はありません。戦後世代が8割という時代、「戦争を教える」ことを怠ってきた結果が安倍総理を筆頭とする内閣・政治家・官僚たちです。15年戦争と言われるアジア太平洋戦争の犠牲者数(死者・行方不明)は2000万人を超えます。そしてヨーロッパでは旧ソビエト連邦一国で2千万人、ドイツが500万人だから、ケタが違います。もちろんソ連がポーランドやバルト3国でやったことは知っているし、日ソ不可侵条約を破って突然満州に進入し、戦後日本の引き揚げ者・残留孤児問題を引き起こしたことも忘れてはいないけれど、それは45年2月のヤルタ協定で、チャーチルとルーズベルトがスターリンに,、対日戦への参加を促した結果でもあるのでしょう。

 和子は前回7月に書いた状態と変わりません。私の腰椎圧迫骨折は、ここの院長が予想したように「状態が固定」して痛みが無いまま続いています。和子を介護するのに、痛みがあると辛いです。でも何にも掴まらないで椅子から立つとふらつくし、歩くと左右にぶれるので、杖を使って転ばないように気をつけています。