介護日記

 

 2011年5月27日 「3.11東日本大震災」

 年明けの号外から、5ヶ月近くたちます。いろいろな死がありました。秋11月、南高時代の山岳部の教え子で、知る人ぞ知る動物行動学者の新妻昭夫が僅か61歳で亡くなりました。下咽頭ガンでした。教え子の医者に聞いたら、最も発見し難いガンなのだそうです。これだけ医学や医療面の進歩があっても、ガンは日本人の死因の3分の1を占めるとか。
 2月に和子のショートステイをとって、彼の「偲ぶ会」に出席したけれど、彼の死はいつまでも重く残っています。教え子の死は辛いです。

 そして3.11。地震と津波、しばらくして東京電力の福島第一原発の炉心溶融が少しずつわかってきました。
 死亡15,188名 行方不明8,742名。これが3.11東日本大地震の、5月23日現在の警察庁まとめの数です。他に11万名に及ぶ避難者がいます。

 私が初任地の浦河で経験した1960年のチリ地震津波を思い出します。5月22日早朝、校庭に面した独身寮で寝ていたら、隣の男子寮の生徒たちが、みんなで浜の方に向かって走っています。「浜の水が引いた」と言って。すぐ着替えて生徒の後を追いました。500メートルほど行くと、未舗装の国道が走り、その向こうは海水浴が出来る砂浜です。週1回のホームルームの時間に、よく生徒を連れて遊びに行きました。受験戦争もテレビもなく、のんびりした時代でした。
 浜に出てびっくりしました。はるか沖1キロぐらい先の海底が底を見せていました。見たこともない大きい岩が、あちこちに顔を出していました。

 私は大学の理学部地球物理学科で学び、専攻は地震火山学でしたが、初めて見る津波の引き波に息を呑みました。学校の授業が始まり、空き時間の教員がラジオを聞いていて、津波の状況がわかりました。震源地が遠く数千キロ離れたチリであること、引き波は数千キロ離れた太平洋を越えて午後日本に到達するだろうということでした。当時は地表が何枚かのプレートで覆われていること、いわゆるプレートテクトニクス理論は確立していませんでした。
 放課後町に出ました。戻ってきた波が浦河港内に押し寄せて膨れあ上がり、水際に並んで建っていた魚市場・漁協・海上保安庁・そして少し高いところにあった郵便局は水浸しでした。
 浦河はそんなに大きな被害はなかったのですが、三陸沿岸は大きな被害を受けました。翌日の新聞の、塩釜の市街地に津波が運んできた漁船が取り残されている異様な写真に驚きました。
 後の地震学の基準が確立されて、この時の地震の大きさはマグニチュード9.5、現地チリの犠牲者は1,700名余りと記録にあります。

 10年も経って、夏休みに家族を車に乗せて三陸沿岸を南下したことがあります。今度も被害を受けた岩手県久慈市の海岸に高さ3m余りの頑丈そうな防潮堤が延々と続いていたのを覚えています。でも10mもの波がきたらひとたまりもなかったでしょう。

 今回の震源地は北米プレート上でした。震源が浅く、確か30kmくらいでした。地震予知学会が最も危険としていた東海地区の、北米プレート・フィリピン海プレート・ユーラシアプレートをそれていました。中部電力が浜岡原発の停止を即座に決めたのは、まさにその震源予想地に建っているからでしょう。

 5月連休の直前、前から予定していたクラス会がありました。女医Mが医師会の救護隊で現地に行っていると聞きました。もし和子がショートステイに行っていれば、私も救援ボランティアに・・・などと、あらぬことを考えました。でも80歳では、審査ではねられたでしょう。

 地震と津波は、政府の後手後手のまずさを別にすれば、一応天災と言えるでしょう。でも福島原発は、東京電力自身が、事態の深刻さがだんだん日をおいてわかってくるというていたらくで、認識と対策のまずさで、人災も極きわまれりという感じです。
 最初はアメリカのスリーマイル島原発事故のレベル5クラスだと言っていたのが、炉心がメルトダウンしているらしいとわかり、チェルノブイリ原発事故クラスのレベル7に改め、その間も燃料棒のメルトダウンが進んでいます。

 今日の朝日新聞に一面で、技術評論家の桜井淳氏は、「危機管理に対する日米の実力は大人と子どもの差がある」と言っています。

 原子炉は、暴走し始めたらコントロールが効かない。日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年10月26日で、東海村に建設された実験炉です。これを記念してこの日は原子力の日となっています。でも、日本はこの日にパンドラの箱を空けてしまったのです。原発は、その実験炉の時から、「トイレなきマンション」と言われ続けてきました。高レベル・低レベル廃棄物の処理施設の問題、原爆の材料になるプルトニュウムをウランと混ぜて(MOX燃料といいます)再度エネルギーとして取り出すという、原発先進国がやらないことを、やろうとしていました。

 私が浦河から美唄に転勤したのは、1962年春です。学校に近い、回りが田んぼで比較的平地に近い三井美唄炭坑は閉山したあとでした。大きな映画館は廃屋でした。アメリカ映画もフランス映画も、札幌を飛び越して、炭坑が北海道の文化の発信地みたいに言われていました。
 九州の飯塚辺りも同じで、五木寛之の『青春の門』にもそれは伺えます。この小説は第7部まで出て、まだ未完成というから、息の長い話です。

 私は教育課程の大改訂で、1年で札幌に転勤したけれど、そのあとは雪崩を打つように、日本の炭坑は閉山が始まりました。美唄は三菱美唄炭坑が大きいヤマで、美唄駅から列車が終点の常盤台まで延びていました。3段切り替えの自転車で最上部の常盤台まで行ったことがあるけれど、駅毎に炭坑の坑口があり、全部で数駅、その最上部が常盤台でした。掘り出した石炭は列車で美唄駅に運ばれ、国鉄室蘭線を経て室蘭港から船で運ばれて行きました。基幹産業と言われた製鉄所は、大量に石炭を使っていました。

 美唄市の隣が岩見沢市です。ここも石炭の積み出しの一大拠点で、幌内・三笠など何本も国鉄の線路が延びていました。そして芦別・赤平・砂川と、空知(そらち)地方は、石炭の宝庫でした。
 石炭が枯渇して閉山になった地方の小さな炭坑はあったけれど、ほとんどは国のエネルギー施策の転換で、「石炭から石油へ」という大転換が起きました。閉山した家族を受け入れるために、札幌に雇用促進事業団の住宅団地が建てられ、私がいた札幌南高は、その中卒者を受け入れる為に、1学年20間口といいう、途方もない大規模校になりました。
 このエネルギー施策の転換で一番犠牲になったのは北海道民で、国鉄(当時)の延長キロ数は半分になりました。ハコモノを作るために、予算がばらまかれ、それが地方債として残り、夕張市のようなことになりました。5校以上あった高校と十数校あった小中校が全部1校ずつになり・・犠牲は全部ここに集中しています。私は山岳部の生徒を連れて登山の途中に何度も通っているので、今の「ひどさ」がわかります。再建指定団体と言っても、それは政府が責任を持つべきことです。
 何度も大きな事故があり、坑内火災を止めるために、百数十名の作業員を坑内に閉じこめたまま注水するという、その時の経営側と組合側の激しいやりとりのテレビ報道は、今でも心に焼き付いています。

 炉心がメルトダウンし始めている中に入って作業をしている作業員は,食べていく為に福島第1原発に入っています。合計何十ベクレルという放射線を浴び、それが1年の許容量を超すと交代。
 しかし、放射線による人体への影響度合いを表すシーベルトになると、何十年後にその影響が発現するかも知れず、その疫学的影響は想像もできません。
 米軍のロボットが入り、そのあと自衛隊と民間のロボットが入り、最後は肉弾です。原発ジプシーと呼ばれる、作業員本人はもとより家族の心痛は如何ばかりかと、察するにあまりあります。

 和子は変わらず元気です。大脳がこれ以上萎縮仕様がないレベルですが、表情も豊かで病人には見えません。新薬が出始めています。でも失われた細胞の再生はサイボーグの世界の話で、あとは本人の脳にまかせるしかありません。
 大震災・津波・原爆被災のニュースを見ると、身動きも出来ない彼女は、生き残ることは出来ないでしょう。
 事実、東北何県かの統計では、障碍者の救命率は健常者の半分だと新聞にありました。地震・津波・原発と重なれば、みな、必死になって避難するのは当たり前で、結果として死者・行方不明者20万人の中に障碍者が2倍の率で含まれていたということです。和子がそこに居たとしたら、車椅子を押して津波の届かない高台に避難することなど無理です。

 長くなりました。新妻のことは改めて書きたいと思っています。

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