介護日記

 

 2010年12月20日 3ヶ月ぶりの日記です

 8月に2本書いたのが、大量にエラーで戻ってきました。300人余りのアドレスに、数回に分けてお送りしているのですが、そのうちの札幌西高関係の方たちに送った部分です。
 この建物の事務を扱っていらっしゃる方に来て頂いて、送れなかった方たちに何とか送り直したのですが、今回のが、うまく届くかわかりません。

 ともあれ、和子は元気です。
 今年の夏の暑さは強烈でした。私の心臓は気温が高いほど快調ですし、和子もクーラーも無い東北の田舎育ちで、汗もほとんど出しません。しかし強い日射の中を、身動き取れない和子の車椅子散歩というわけにいかず。初夏から夏にかけての散歩は出来ませんでした。日傘をさしていらっしゃる女性が多かったのが印象に残りましたが、車椅子を押しながら日傘もというわけにはいきませんでした。

 例年、北海道の10月は小春日和が1ヶ月ぐらいはあるのですが、今年は風が冷たかったり、冷たい雨が降ったりで、とても車椅子散歩にはなりませんでした。今年の和子の車椅子散歩は、近所を歩くのが3回、それとチケットを頂いて地下鉄で行ったアマチュアオーケストラの1回だけでした。ハイチの豪雨災害や、地球全体の異変を、大都会札幌にいて感じた年でした。去年はサポーターの方と一緒に、十数回外出しているのですから。

 そのコンサートですが、古い市民会館を壊して跡地に建てた仮のホールで、事前に連絡してあったのに、職員の対応が悪く、私が和子の痰の吸引で困っていたら、休憩時間に教え子が私たちを見付けてやってきて、いろいろサポートしてくれました。何と西高最後の教え子で、27年振りの再開で、私は顔を覚えていませんでした。中学校の特別支援学級(かつては障害児学級と言っていました)の教員で、職業柄、何か変だと感じたのかも知れません。
 後日、札幌市の担当課に電話しました。例によって、独立行政法人に運営を委託しているホールだとのことで、「様々な障害をかかえている観客に対応するように教育しているのか」と言ったら「申し訳ありません。指導を徹底します」と詫びていましたが、どこにでもある独立行政法人という代物(しろもの)は、市の天下り役人を一人か二人置いて、あとは1時間いくらのアルバイトのお兄さんやお姉さんだろうから、「指導の徹底」など無理なのでしょう。コンサートホール・キタラは東京のサントリーの支店のような法人がやっていて、痒い所に手が届くように訓練されていて、不愉快な思いをしたことはありません。

 今年の冬至は12月22日です。冬至と言えば、1996年の和子の「暁の脱走」を思い出します。和子はパジャマのままコートを着て、はだしで雪の外へ出たのです。チェーンロックを外してです。
 住んでいた小樽のマンションが少し山の中で、回りの道は踏み固められた雪で真っ白でした。マンションの知人の方何人かに頼んで大捜索をしました。幸いに、街の方に下りる道を歩いて、通りがかりの車の人の通報で、小樽警察署に保護されました。両足裏全面にひどい凍傷を負っただけで済みましたが、この病気は「命がいくつあっても足りない」という思いをしました。冬至というと、あの悪夢のような事件を思い出します。混乱期のさなかで、あれから14年たちます。

 いま和子は病気も進んで、自分では身動きもできない状態です。でも相手の声や雰囲気でわかるらしく、ヘルパーやナースが来た時、微妙に表情がかわります。
 あと、胃瘻から入れる食事は、製薬メーカーが作っている栄養剤(これはどうしてか薬品扱いで1割負担ですむのですが)、私が飲んでみてとても美味しいと思えないものを注入するのは嫌なので、私の食事と同じ献立で二人分作り、ミキサーにかけて、裏ごしをして胃瘻から注入しています。胃瘻の注入口が内径4ミリしかないので、念入りに裏ごしをしないと入りません。
 その時によって違うのですが、痰がからむと吸引機で吸引しなけばならず、夜中でも起きるので、けっこう私が寝不足になります。

 世の中は内外共に騒然としています。いまそれに触れる余裕は無いのですが、私たちは取りあえず元気に過ごしています。私が80歳、和子は74歳です。

 12月8日は日米開戦の日でした、1941年からたった4年で日本は無条件降伏をしました。私が住んでいた岐阜市の隣の農村でも、働き盛りの青年が君が代と日の丸に送られて出征しました。そして何日も経たないうちに遺骨になって帰って来ました。ごくご近所で、遊んでもらったこともあるお兄さんがあの一辺30センチぐらいの白木の箱に入って戻ってきたことに現実感が沸きませんでした。でも新婚の奥さんと3歳ぐらいの女の子の戦後はどうなったんだろうと、今になっても思い出します。この4年間は、私が11歳から15歳の間でした。工業学校でなく普通科の中学校に行っていたら、少年兵として、特攻機に乗せられて、海の藻屑となっていた可能性が高かったと、先回の『介護日記』に書きました。

 何度も書くけれど、15年戦争と言われた長い戦争の時代に、日本軍による犠牲者は、東南アジアの人たちを中心に3000万人、日本人は300万人と言われています。

 私は戦争の最高責任者だった昭和天皇を許せません。そして、私と同世代の、息子である現天皇も、私が自分に戦争責任があると思っているのと同様に戦争責任を感じるべきだと思っています。正月2日の行われる参賀の行事、日の丸の小旗を振って集まる高齢の人たちと、高いところで手を振ってそれに応える天皇一家。私は眼をそむけたくなる思いでテレビを消します。あの参賀に集まった人達の息子たちが、相当数戦死者であることを思うからです。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む