介護日記

 

 2010年8月31日 65年目の8月の終わりに

 暑い日が続きます。札幌の昨日の最高気温は34.1度、観測史上最高だったとか。土・日に外部からくるヘルパーが、「お宅は扇風機もないのですか」と驚きます。
 例年、お盆の頃の1週間を我慢すれば秋風が吹くので、扇風機もないままでした。
 毎年発生するチリ沖の温水塊エルニーニョが今年はラニーニャという2つの温水塊に別れて、北半球の大きな循環のベルトを上に押し上げているせいなのだとか。普通なら冷たいシベリア高気圧が強い季節なのですが、今年はラニーニャの暖かい太平洋高気圧が強く、そのさなかにある日本列島の南部は、亜熱帯から熱帯に移行しているんではないかという学者もいます。天気予報のお日様マークの中に更に濃い色の「酷暑」マークが連日出ています。こんなことは初めてではないかと思います。
 和子は20数年、私も10数年、クーラーなどない時代に本州で育ったせいか、うんざりしながら暑さに耐えています。私の狭心症は暑い夏の間は全く無事ですし、和子も「脳は暑さと関係ないの」といわんばかりの普通の顔です。

 和子は毎日10時間ぐらいは車椅子です。動かないし、痰がからめば、私かデイサービス(週3日)のナースが痰を取りますが、炊事も含めて私は大汗をかいています。5歳ぐらいにはものごころもついていたろうから、この暑さは70数年ぶりの暑さで、毎回書いているけれど、この地球規模の天候異変はただ事ではないと実感します。リーマンショックの影響で円高が止まらず。日本の政権がどうなるかとか。いろいろあるけれど、私はやはり地球の循環系がすっかり狂っているのが、いちばん気になります。

 つい先月、パキスタンでモンスーンによる雨で洪水が発生。被災者は約2000万人、犠牲者は2000人超とみられています。地震や津波は今のところ、予知と避難しかないけれど(建物の耐震強度を高めるという前提の上で)、モンスーンは避けられません。被災者の数も犠牲者の数も、もの凄い数だけど、1ヶ月たつと、もう忘れられてきている気がします。

 今年は被爆65年ということで、NHKも民放も、たくさんの戦争回顧番組を放送しました。中国や旧満州、植民地だった朝鮮や台湾でやった強制徴集の実態を語る老年兵の生のインタビューも多かったです。敗戦時私が15歳だったから、80代後半から90代の方たちの証言も多かったです。
 「少年兵」についての証言を見て、気が付いたことがあります。全国の普通科中学生(15歳入学)に対して、学校別の志願兵を、学校毎にノルマを決めて集めたという証言もありました。私と全く同年齢ですが、私は記憶がないのです。

 そして以下のことが判りました。私は昭和19年(1944年)新設の工業学校の電気通信科の1期生です。入学式での校長の訓辞の他に、配属将校の訓辞もありました。「おまえ達の命は、陛下のために捧げてもらう」という訓辞でした。入学してだんだん判ってきたことは、私たちは爆撃機の通信乗員の養成だったのです。普通科(旧制中学)の生徒は短期間の訓練で、一人乗りの特攻機に乗せる訓練をし、私達は爆撃機の通信兵として通信と無線機の修理要員だったのです。翌年(1945年:終戦の年)は3月に米軍が沖縄に押し寄せ、私の家があった岐阜市も学校のあった大垣市も空襲で焼き払われました。
 工場実習どころではなく、揖斐川にかかる東海道本線の迂回路をつくるための土木工事に駆り出されました。
 爆撃機や戦闘機を作る日本の航空機産業は、米軍の度重なる爆撃で壊滅状態でした。実戦を知らない参謀本部のエリート将校たちの机上ペーパープランは、役にたちませんでした。
 沖縄は全島が戦場になり、日本軍と民間人併せて20万人はほぼ全滅、投入された米軍の数は数倍と言われています。

 その間にヒトラーが自殺してドイツ軍は降伏。米・英・ソの3首脳によるヤルタ会談、そして日本に無条件降伏を突きつけたポツダム宣言、連日御前会議が開かれている間に8月6日にヒロシマ、9日にナガサキに原爆投下。15日に天皇の肉声放送で戦争は終わりました。

 いま改めて思うのは、昭和19年、私が工業学校ではなく、普通科の中学校に入学していたら、少年飛行兵に応募して、南海の藻屑になっていたかも知れないということです。何しろ数ヶ月の訓練で、故障だらけの戦闘機に片道だけの燃料を積み込んで出撃したわけですから。「生還は帰し難し」と皆が遺書に書いたのも当然でしょう。

 8月は祈りの月と考えていたけれど、国内問題や、地球規模の環境問題などを書いてきたら長くなりました。

 最後に、8月9日の長崎平和祈念式典で田上市長が読み上げた、平和宣言の一部を転載します。

 『核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください。
 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が議長から提案されました。この提案を核兵器をもたない国々は広く支持しました。世界中からニューヨークに集まったNGOや、私たち被爆地の市民の期待も高まったのです。
 その議長案をアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまいました。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は逆に核拡散の危機に直面することになります。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限のルールとしてしっかりと守っていく必要があります』

 いつも思うのは、この5大国が、国連安保理事会の常任理事国を占めている矛盾です。悲観的になってはいけないと思いながら、この5ヵ国が、核不拡散条約(NPT)に真剣に取り組まなければ、核兵器は拡散し続けるでしょう。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む