介護日記

 

 2010年8月6日 「死んだ女の子」

 65年前(1945年)の今日8月6日、テニアン島から発進したB29エノラ・ゲイ号が落とした原爆が広島市島病院上空600mで炸裂し広島は一瞬にして壊滅しました。

 後の広島新聞社の記録では、

「ウラン爆弾。午前8時15分。広島市大手町1丁目島病院上空570m前後。せん光。直径100m。表面温度9千〜1 万度の大火球。ごう音。爆風。大火災。原子雲1万mをこえる。黒い雨。広島市壊滅」

とあります。

 「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式典」には、菅総理をはじめとして、ルース駐日大使、国連事務総長、英仏両国からは臨時代理大使、そしてIAEA(国際原原子力機関)代表も初参加でした。
 でも皆さん式典参加後すぐ帰ったようで、あの平和記念資料館に足を延ばした人は居なかったようです。

 この原爆は戦後すぐ、推定死者10万余と言われました。しかし、この日慰霊碑に合祀された人は5501人、合計合祀者の数は26万人余と報じられています。

 私は家族子ども達を連れて3回、単独で1回広島に行っています。慰霊碑にお参りし、平和記念資料館を1日かけて、ゆっくり見てまわります。展示資料は目をそむけたくなるものばかりですが、かつて日本の歴史にこういうことがあったことを、自分を含めて家族に見せたいという義務感のようなものがありました。

 朝日新聞の『ひと』欄に、歌手の元(はじめ)ちとせが、被爆60年の2005年以来、原爆ドームの前で歌い続けている歌の記事が出ていました。

<あたしは死んだの あのヒロシマで>
<あのときも七つ、いまでも七つ>

 トルコの有名な反体制詩人ナジム・ヒクメットが作った原詩の曲です。
 この記事にも書いてある1960〜70年代に歌声喫茶などで一世を風靡した曲というので手許の歌集を探して見付け出しました。訳者と作曲者によって違うのだけれど、私がかつて歌ったのは、あの「原爆許すまじ」を作曲した木下航二作曲のものです。

「死んだ女の子」

1 とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

2 十年前の夏の朝
  あたしはヒロシマで死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

3 あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった

 このあとまだ続くのだけれど、元ちとせのコンサートを聴いてみたいです。

 北海道も暑いです。私も和子も本州育ちなので、夏には強く、私の心臓にもいいのだけれど、今年は少し応えます。この部屋の構造が、風が通らないせいでもあるのですが。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む