介護日記

 

 2010年6月26日 和子発熱と「沖縄慰霊の日」

 先々週、和子は熱を出しました。朝、額に触ったら異常に熱く、熱を測ったら39℃ありました。すぐナースを呼び、医師も来て、抗生剤の点滴を2日間、朝・夕続けました。血液検査の結果はすぐ出たのですが、尿は検査機関に出して培養に3日かかり、「尿路感染」と病名が確定しました。点滴のあと抗生剤の粉薬を5日間続けて全快しました。
 3年前は尿が真っ黒になり、救急車で大雪の中を入院しました。退院まで1ヶ月かかったので、今回は大事にならないで良かったです。

 全快が確定したので、丁度ベッドが空いたいつもの病院に2週間少しの予定で、レスパイト入院しました。レスパイトとは家族の介護休暇という意味があり(Respite:一時休止)、それを標榜している病院もあると、インターネットで知りました。2晩ゆっくり眠りましたが、フト目を上げると和子のベッドは空なので、「そうか、居ないんだ」と毎度のことながら思います。寝不足は解消するけれど、居るべき人が居ないと寂しいです。

 そんなことで少しごたごたしている間に23日の「沖縄慰霊の日」が過ぎ、そのあと、私も80歳の誕生日を迎えました。和子も私も日常的にはほとんど変化は無いのですが、和子は油断していると危険なことになるし、私の心臓もすぐに反応してアタックが起きニトロを舐めて治めました。

 戦後65年6月23日、この日は沖縄戦が終わった日と言われています。菅総理もこの日「平和の碑」のある平和祈念公園に来て、県、県議会主催の沖縄全戦没者追悼式にきて祈りを捧げ、今もなお米軍基地が集中する沖縄の負担について「全国民を代表しておわびする」と謝罪したと報じられています。
 でもこの日は、沖縄守備軍司令官牛島満中将が摩文仁の丘で自決し、「組織的な戦闘が終わった日」で、このことは日米両軍の末端まで行き渡らず、全島の戦争が終わったのは2ヶ月後の8月15日が過ぎてからで、戦死傷者の数は6月23日以前より多かったという説もあるけれど、全島と周辺の島々は指揮系統が無くなっていた日米双方の闘いが繰り広げられていたようです。
 「ひめゆり学徒隊136人、その8割以上は解散後の犠牲者である」と新聞記事で読みました。

 「平和の碑(いしじ)」は前にも書きましたが、建てられた1995年以来初めてテレビの画面で見ました。たぶん黒御影石でしょうか、高さ2m幅4m厚さ20cmぐらいの石碑が数十枚、平和公園の中に建っています。兵士の場合は出身の部隊別、旭川師団は人数が多く、すぐわかりました。
 民間人の数の多さにも驚きました。日本側の死者20万人のうち半数の10万人が民間人というのも、この戦争の特徴を表しています。米軍の戦死者の名前も書かれていました。そして日本軍が植民地だった朝鮮と台湾の戦死者の石碑が僅かしか名前が書かれていないことも前に書きました。「戦後処理は終わった」という理由で、日本の軍人遺族に支払われている遺族年金が全く支払われていないこと。それでは、石碑に名前だけ書かれたくはないでしょう。

 朝日新聞の「ひと」欄に、牛島中将の孫の貞満(さだみつ)さん56歳が紹介されていました。東京の小学校で教え、障害児と健常児がともに学ぶ「統合教育」に熱心に取り組んできたこと。1994年、同僚に背中を押され、初めて沖縄を訪れる。「やさしい人だった」と言われる祖父の「最後の命令」の展示、この命令で「十数万人非戦闘員が砲煙弾雨の中に放置された」。祖父が自決した壕に入り、「天皇のいる本土を守ることを優先した。満は結局天皇しか見ていなかった」。沖縄県内小学校で7年続けた平和授業で祖父のこと、沖縄戦のことを説明し、締めくくりに「軍隊は住民を守らない。沖縄戦から学んだことです」と。
 A級戦犯で死刑になった東条英機の娘さんがが岐阜県に住んでいて、「父は正しかった」と言い続けているという聞いたことがあります。

 天皇家の人達も朝日新聞ぐらいは読むだろうに、と思います。こんな記事を読んで、どんな気持ちでこの「沖縄慰霊の日」を迎えたのだろうかと気になります。

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