介護日記

 

 2010年3月10日 「1945年3月10日」東京大空襲の日

 あれから満65年です。
 戦時中で、もちろん軍による報道管制下にあったので、岐阜に住んでいた私たちは、詳細を知りませんでした。
 というより、この終戦の年は、毎晩のように空襲警報が鳴って、日本のどこかの都市が夜間空襲で焼き払われていました。

 制空権は完全にアメリカ側にあったので、昼間は爆弾で軍港や軍需工場の地域、夜は中小都市への焼夷弾攻撃で、ジュネーブ条約の精神などはあろうことか、本当に双方が「仁義なき無き闘い」をやっていました。
 ただこの3月10日の東京爆撃は、後のヒロシマ10数万人、長崎の10万弱に匹敵する10万を超える犠牲者を出したことで、際だっています。
 前にも書いたけれど、私たちが住んでいた岐阜市は7月9日、深夜の焼夷弾爆撃で死者1000人、私が通っていた学校があった大垣市は、軍需工場があったので数回の攻撃を受け、7月29日の焼夷弾攻撃で灰燼と化しました。
 当時、私たちは動員で、土木工事に行っていました。大動脈の東海道本線の迂回路を造る工事で、毎日グラマン戦闘機の攻撃を受けました。急降下で降りて来て機銃掃射です。
 工業学校の生徒は無事だったけれど、一緒にトロッコを押していた兵隊さんが死にました。
 8月15日に戦争が終わって、学校に戻ったら、焼け野原に土台だけが残っていました。

 岐阜の街は、あの長良川河口堰(ギロチン)で有名になった長良川が市街地を北から西へ囲むようにして流れていました。爆撃が始まって、たくさんの人達が川を渡って山の方に避難しようとしたのですが、米軍機はその橋詰めを先ず爆撃して退路を塞ぎ、そのあと市の中心部を爆撃しました。
 我が家は岐阜市の最南端にあったので、15歳の私が母と妹を伴って、たんぼ道をひたすら南方に逃げ、木曽川の堤防までたどりつきました。振り返ると、岐阜の街は紅蓮の炎に包まれて空全体が真っ赤でした。
 15歳で、戦争には行かなかったけれど、戦争体験そのものをしたという実感があります。

 和子はショートステイ中に肺炎にかかり、熱も40度を超えたようですが、抗生剤で治まり、元気に帰ってきました。

 ハイチ地震に続けてチリ津波が起きました。大きな津波が起きて何万という人が亡くなりました。チリ地震は、太平洋を越えて日本まで来ました。高い所では三陸沿岸で1.5メートルぐらい潮位が上がりました。

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 前回書いたことの続きみたいだけど、皇太子ご夫妻の娘の愛子ちゃんが学習院でいじめにあい、外国訪問予定の夫妻は皇太子だけにして雅子妃は娘に付き添って通学していると、大きく報道されました。前回書いたけれど、そんなことは皇太子一家のプライヴァシーです。いじめの問題は全国で頻発しているけれど、日本のマスコミはそれを全部報道するつもりですか?皇室番記者は、そんなことを報道するのが仕事ですか?

 立憲君主国の最高位に居るイギリスの女王でさえ、そんな番記者の監視?のもとになど生活して居ません。私が見た『クイーン』は劇映画だけど、新聞記者など、その辺に居ないし、日本の宮内庁の役人らしきものも居住区にはいません。全く事実と違うこと映画にはできないでしょう。
 宮内庁が支配している陵墓のことも書きました。宮内庁などという組織を変えればいい。総務省の管轄にでもして、霞ヶ関との人事交流をやればいい。
 憲法が昔の帝国憲法から変わったのだから、皇室典範も変えればいい。当然、憲法が最高位の法律です。

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