介護日記

 

 2009年5月10日

 例年より降雪が少なく、雪融けも早く気温が高いので、「暖冬」という感じなのですが、日替わりのように春の日差しとみぞれまじりの日が続きます。札幌の桜もあっという間に咲き終わりました。
 昨日だったか、道東の遠軽の最高気温が31度という、同じ日で日本最高の気温になったと報じられています。
 毎度書くけれど、地球の循環系は狂ってしまっています。エコという言葉が氾濫し、基準をクリアした車や電化製品にに政府が補助金を出すという前代未聞のことまでやっているけれど、遅きに失した感じが私にはあります。
 100年に一度の大不況で、トヨタを初めとする大企業が、正社員の首切りを始めたというニュースもあります。経済も底知れぬデフレスパイラルに落ち込んでいる実感があります。

 和子は久しぶりにショートステイに入って、私は週に2回洗濯物の入れ替えに通うけれど、あとはひたすら溜まった寝不足の解消につとめています。今週帰宅するので、また寝不足の日々が始まります。でも冬の間出来なかった車椅子散歩が出来るようになるので、楽しみです。
 大脳の神経繊維がほとんど溶けてしまって、五感のうち聴覚しか残っていないようだけれど、もうじきライラックも咲き始めるでしょう。嗅覚が残っているとも思えないけれど、心なしかそとを歩くと気持ち良さそうな顔つきになります。

 ここ2回続けて、西高山岳部の教え子のお父さん、古い学校図書館仲間の同僚のお母さんに認知症の症状が出ていることについて、相談を受けました。教え子の方は一人っ子の彼が東京に仕事を持ち、もう一人の方は家族が全部仕事を持っているという問題があります。

 うちの場合のように、私の年金受給が始まったあとに和子の病気が判り、私が在宅介護で付き合っていくことを決めたし、当時会津にいた教え子の精神科医との出会いがあって、今まで生きてこれたという実感があります。東京の病院で「中期症状です」と言われて17年、私が室蘭に単身赴任中のことを子ども達に聞くと異常は1985年まで遡れます。言われてみれば、月に数回は帰っていた私も何か変だと思うこともあったけれど、当時は若年性アルツハイマーなどという言葉は無かったし、和子は不運な先達だったわけです。1985年から数えれば今年で24年です。1964年に結婚してから45年だから、半分以上は病気だったわけです。

 和子は不運な先達になってしまったわけで、この悔しさは思い出せば今でも胸が痛くなります。だんだん会話が成立しなくなって、彼女の思いのたけを聞くことは出来なくなってきたけれど、去年11月の『介護日記』に、【顔の表情を見ると、間違いなく心の中に、表現できない言葉があると私は確信しています】と書いています。今はすっかり穏やかな顔になって、それが介護をしている私の救いでもあるけれど、有り余る才能を残したまま表現するすべを無くしてしまった本人の悔しさこそ思うべし、という気持ちがあります。

 二人のケースから相談を受けてつくづく思ったのは、認知症を的確に診断できる医師がいないこと、その結果患者の実態にあわない薬が使われていることです。アリセプトなど、絶対に投与してはいけない中期・後期症状の患者に平気で投与されているケースはざらです。

 2ヶ月も『介護日記』を書かないうちに、季節は5月皐月(さつき)になりました。早月とも書きます。

 4月29日は緑の日でした。これは、亡くなった昭和天皇の生まれた日、当時の天長節でした。大正天皇は病身で早く亡くなっているけれど、昭和天皇以後は長寿の家系みたいで、今の天皇夫妻はこの4月に結婚50周年でした。私より3歳下です。象徴天皇という世界に例のない地位だけど、1947年5月3日に制定された新しい憲法で、人間天皇と規定されたわけだから、明らかに天皇ご夫妻の私事です。「公共放送」のNHKが長々と特集番組を組んだのも気になりました。

 朝日新聞の編集委員が、小さいコラムに書いているのだけれど、ダルビッシュ投手が、「何回も言いますが、日の丸は僕の中では絵でしかない。何も思わないです」と。そして編集委員氏は、五輪憲章が「オリンピックは、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めていることを紹介しています。

 私はWBCのマスコミの熱狂ぶりを思い出したのです。「サムライニッポン」「サムライJAPAN・・・と、明治維新以来サムライ社会とは訣別して近代国家の仲間入りをしたのではないか。
 私は彼らが「サムライJAPAN」と絶叫してナショナリズムをあおり立てるという状況に怖ろしさを感じます。平気で口にするキャスター達は何も感じないのだろうか。

 (この続きがあるのだけれど、時間がないので次回―余り遅くならないうちに―書きます)

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