介護日記

 

 2009年3月1日 弥生3月

 新年を迎えた夜中、例年のようにメールで年賀状を出しました。

 札幌は雪の中、2009年の新しい年を迎えました。
 内外共に先の見えない途方もない越年になりましたが、和子は安定した状態を保っています。一昨日、主治医の来診で、「今年も無事に過ぎそうですね」と言われました。正月早々、救急車で緊急入院したのが2006年でしたから、あれから満3年になります。
 毎年、私が通っている手稲区の病院で脳から腰までのCTを撮って、コピーをもらっていたのですが、2007年秋から、フィルムでなくCDになり、メールに添付して送ることもできるようになりました。去年も撮りましたが、二人とも特に変化はありません。私の脳は年齢並みの萎縮、和子の脳は大脳が真っ黒で脳脊髄液で満たされ、大脳としては機能していないみたいですが、表情も変化に富み、病人らしくない顔つきです。
 コムソンのあとを引き受けたジャパンケアサ−ビスという会社が、大晦日も正月もヘルパーを派遣してくれるようになり、「魔の年末年始」という状態もなくなり、私の体も楽になりました。
  今年もインターネットをなさっている方には、この号外で年賀状に換えさせていただきますが、悪しからず。

    2009年元旦           後藤 治・和子

 年始の挨拶をお送りしてから2ヶ月経ちます。1月の札幌はほとんど真冬日がなく、斜里町沿岸の流氷接岸も随分遅れました。2月如月になってやっと真冬日と降雪が続きます。調べたら、如月(きさらぎ)は「衣更着(きさらぎ)で、寒いので重ね着をする季節」が語源という説が有力のようですが、なぜ如月になったかは判りません。

 でも今日から弥生3月です。3月も半ばになれば雪も融け始めるので、和子の車椅子散歩も、あとしばらくの我慢です。
 弥生3月と言えば、私と和子の本『和子 アルツハイマーの妻と生きる』が出た2002年の3月、北海道新聞にT編集委員の執筆になる『チュー太と和子と生徒と アルツハイマー闘病記』という2日続きの記事が出ました。その最後に、「弥生3月、札幌西高は今年も君が代を斉唱しなかった」とあったのを忘れません。

 日の丸・君が代の学校現場への押しつけは年を追うごとに強くなり、札幌西高は今も斉唱はしないでテープで流しているだけのようですが同じ卒業式や入学式の中で、西高オーケストラが演奏するヘンデルのメサイアの中のハレルヤコーラスの壮麗さとのミスマッチをどうしているのか、不思議でなりません。

 広島県立世羅高校の石川校長が、県教委の通達と現場教職員の板挟みになって、自ら命を絶ったのは1999年3月の卒業式の前夜でしたか。文部省(当時)は実施の通達を出したけれど、通達を受けた都道府県教委の事務局の中には強硬な「指導」をする者がいて、とうとう死者まで出してしまいました。後に校長の遺族が職務が原因で自殺したとして、民間の労災に当たる公務災害の認定を求め、地方公務員災害補償基金広島県支部はこれを認めました。

 あえて言わしてもらえば、キャリアーなどとは縁遠い地方の小役人が張り切ったのが目立ちます。和子は元高校の音楽教師だったけれど、私と出会う前の学校の卒業式で君が代の伴奏をしたことを悔いていました。私と出会った学校では日の丸はあったけれど、君が代はありませんでした。
 娘の札幌市立高校の入学式には私が出席しました。比較的自由な学校と言われていたので、「国歌斉唱、皆さんお立ちください」とアナウンスがあって、私以外回りの父母達が全部立ったのには驚きました。500人の入学生で、父母二人の参加もあったようで、私だけが立たないし歌わないので、まわりが異様な雰囲気になったのを忘れません。いま42歳の娘の高校入学式だから、もう24年も前のことです。私は結婚が遅かったので戦中派の最後ですが、周囲の父母達は戦争体験は無いのかも知れないと、あとから思いました。

 東京の場合は石原知事の強力な指導の結果でしょうが、処分された教職員が「君が代」裁判は、2004年度原告(172名)の「一次訴訟」と2005〜2006年度原告(66名)の「二次訴訟」の二つに分かれて訴訟が進行しています。原告はいずれも都立学校の教職員です。
 百歩譲って君が代が「国歌」だとしても、それを歌わない事で処分される先進国などあるでしょうか。北朝鮮やミャンマーや、ほかにもある圧政国家ならいざ知らずです。

 戦争が終わった時、私は15歳でした。8月15日の昭和天皇の、あの聞きづらいラジオ放送もはっきり覚えています。岐阜と大垣の都市空襲と動員先で米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射にさらされ、辛くも生き延びた実感があります。新憲法が公布されたのは1946年の11月です。天皇はそれまでの君主や現人神(あらひとがみ)ではなく、人間天皇として、そしてその地位は「象徴」という少し意味不明な存在になりました。4月29日の天長節と言われた祝日は天皇誕生日と名を変え、昭和天皇が亡くなったあとは、今の天皇の誕生日、12月23日になりました。 
 私は戦後、「君が代」を歌ったことがありません。道立高校を5高経験しましたが、学校の式で歌わされたことはありません。いい時代の教員生活だったと、つくづく思います。日の丸の小旗と君が代で送られて出征して行った兵士が、たくさん白木の箱の遺骨で戻ってきました。小さな農村の小学校だったから、遺骨になって戻ってきたのは、近所のお兄さんだったり、学校の友達の父や兄達でした。小学校(その頃は国民学校)の校庭に天幕を張り、合同慰霊祭が頻繁に行われました。

 慰霊祭で歌われた歌は

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
   山行かば 草生(くさむ)す屍
    大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
     かへりみはせじ

でした。その「大君」とはもちろん、「君が代」の「君」です。スポーツ大会の開会式や優勝台でこの曲が演奏されるのをテレビで見た時はリモコンで音を消します。

 和子は元気です。先週、血尿が出て熱も38度余りありました。4年前の救急車入院を思い出しましたが、今回は抗生剤の点滴と飲み薬で治まりました。4年前は尿の色が真っ黒で、熱も40度ありました。その時は1ヶ月余り入院しました。

 そんなこともあるので、この冬は部屋を暖かくして冬ごもりです。雪融けて車椅子散歩が出来る日が待ち遠しいです。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む