介護日記

 

 2008年12月15日

 岐阜市に住んでいた四兄が亡くなりました。大正15年(1926年)生まれだから、私の4歳上です。これで兄たちは全部亡くなりました。長兄から三兄までは戦争に関わり、四兄は徴兵検査を終え、秋に入隊という、その年の8月15日に戦争が終わりました。姉が2歳上、妹が5歳下で2.26事件の直前に生まれているから、うちのきょうだいは全員が太平洋戦争の生き残りでした。

 姉と私と妹は「銃後の守り」だったけれど、住んでいた岐阜市が7月9日夜の大空襲で焼き払われました。死者900人、家を失った人は10万人と言われます。私は動員先で米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射に追いかけられ、戦場に近い体験を味わっています。
 それでいて一人も戦争で死ななかったのだから、奇跡的とも思えます。いつか教室で生徒にこの話をしたとき、口の悪い生徒が「悪運の強い一家だなあ」と言ったのを忘れません。

 私は1937年に小学校に入学し、その年の7月7日に日中戦争が勃発、そして5年生の4月に国民学校と名が変わった年の12月8日に日本軍の真珠湾攻撃、日本は太平洋戦争にのめり込んでいきました。朝、学校に行く準備をしていた時、ラジオから流れてきた大本営発表のニュースは忘れません。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」という、軍人特有の甲高い声のラジオ放送(管理人註: YouTube 2分30秒あたりから)が、ありありと今も記憶に残ります。

 昭和天皇は亡くなったけれど、私の中で昭和は続いているので、平成という年号にはなじめません。今年は昭和83年です。5年生まれの私は78歳になりました。

 前の大戦を「15年戦争」、あるいは「アジア太平洋戦争」とも言われています。1931年の満州事変から1945年の無条件降伏までの15年です。その15年間に、日本軍によって中国を初めとして、東南アジアで2000万人もの犠牲者を出した、まぎれもない事実があるのに、クビになった空幕長の、「日本が解放した」というセリフには驚きます。文民統制と言いながら、航空自衛隊の中では、こんな暴走を許していたのですから。

 12月8日、日本空軍によるホノルルの真珠湾攻撃の日、在米日本大使館による不手際で、攻撃のあと宣戦布告の通達がアメリカ側に伝わったとか言われています。アメリカ側にとっては奇襲そのものだったようで、日本側の戦死者数十名に対して米軍側の死者3000名、アメリカの太平洋艦隊は壊滅状態になりました。
 数年前にヒロシマ・ナガサキの被災者たちが原爆展をワシントンのスミソニアン博物館で開く準備をしていたのが、退役軍人たちの「リメンバー・パールハーバー」の声でご破算になったことがあります。この博物館にはヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した、その爆撃機が展示してあると聞きます。(管理人註: 国立航空宇宙博物館 スチーブン・F・ウドバー・ハジー・センターに展示されている)

 私はこの日は忘れないで、新聞やテレビのニュースを注意していたのですが、どこも取り上げていませんでした。
 この日のあと、何回かにわたって民放も含めて、日本軍の中国での残虐行為や、東京大空襲や、BC級戦犯問題を取り上げた番組はあったけれど、12月8日の、この日のことを取り上げたものは無かったようです。
 何度も書くけれど、日本人として決して忘れてはいけない日が年に何回かあります。8月6日・9日・15日、6月23日、そして12月8日です。新聞を読まない世代が増えていると聞くけれど、「公共放送」を看板にしているNHKが何故やらないのか、その責任は大きいでしょう。

 BC級戦犯について少し書きます。北海道の北見市は、戦前は野付牛町と呼ばれていました。そこの野付牛中学校(旧制)出身同期に平手嘉一菅季治(すえはる)両氏が居ます。平手氏は終戦時、陸軍大尉として室蘭俘虜収容所長でした。
 戦後彼はBC級戦犯として逮捕され、絞首刑になっています。

 徳田要請問題で、国会で参考人質疑の後に命を絶った菅季治氏は、奇しくも野付牛中学校で平手嘉一と同期生でした。菅季治のことは、後にノンフィクション作家の澤地久枝が、『私のシベリア物語』という作品で、詳しく書いています。私も持っていたのだけれど、どこかにまぎれ込んで手許にありません。

 何故わたしが、この二人のことについて書くかということですが、野付牛町が後に北見市になり、野付牛中学校は戦後新制の北見北斗高校になりました。私が教員生活最後の室蘭に在任中、北見北斗出身で旧知の釧路在U氏から便りをもらいました。平手嘉一氏のことを室蘭の図書館で調べてほしいという依頼でした。平手嘉一・菅季治両氏の学友で、後に北見北斗高校の教員になったM氏が、後に郷里の宮城県の私立高校長を定年退職されたあと後、私費を投じて二人の追悼文集を出したいからということで、U氏からの依頼がきたのです。

 何度か図書館に通い、できるだけの資料のコピーを取って送りました。その作業をしながら、人格者そのものだった平手氏が、俘虜収容所長として責任を取らされ、絞首刑になった不運に涙しました。戦時中の食糧難の時代、俘虜に十分食事を与えなかったとか、副食に出したゴボウを,「木くずを喰わせた」とか・・・詳細は覚えてないけれど、日本とアメリカの食文化の違いまで、所長の責任にされたようです。

 私もBC級戦犯のことを書いた本を何冊か読んでいました。そして自分が住んでいる室蘭で、かつてそんなことがあったのかと、暗然としました。

 1年余りして、U氏経由で大部の2冊の追悼文集が送られてきました。1冊は平手嘉一氏、もう1冊は菅季治氏についてのものでした。室蘭時代に精読したので、私の手もとに置くよりはと、北見北斗高校卒業で、母校の図書館司書を長く務められたNさんに送りました。

 かつてフランキー堺が主演した『私は貝になりたい』というドラマがありました。赤紙1枚で招集された床屋の主人公が、捕虜を上官の命令で刺し殺しそうになり、終戦後進駐軍(占領軍のことを当時こう呼んだのです)がジープで逮捕に来て、東京で裁判にかけられる。
 「私は何もやっていない。兵隊に取られることもない、・・(水の底の)私は貝になりたい」と絶叫するフランキーの迫真の演技が忘れられません。いま上映しているリメイク版は見ないつもりです。

 朝鮮戦争が始まってGHQの方針が変わり、BC級戦犯の裁判は打ち切られ、全員釈放されました。罪に問われた2割が死刑になり、残りの8割が釈放されたと、ある記録にはあります。早期に裁判にかけられた人達だけが、理不尽な運命にさらされたことになります。そんな悲運な人が野付牛中学から2人も出ました。戦争は否応なく理不尽な運命を人に強いるものです。

 2008年の回顧が新聞に載り始めました。

 同窓会や同期会・クラス会は、今年は当たり年でした。和子をショートステイに頼んだり、それができない時は、家の近くの飲み屋でやってもらったりしました。無理をして出るのは、新しい出会いがあり、応援団が増えるからです。

 教え子が通っている手稲区の教会に、ヘンデルのメサイアの合唱の応援に3年通いました。でも和子は一見何も変わっていないけれど、体が温かくても手足は冷たい、という状態が顕著になり、2年前から行くのはやめました。肺炎になったりしたら命に関わるので。
 その教会の信者でプロのヴァイオリニストの方が、「和子さんが来れないなら、こっちから音楽会の出前をしましょうと、ピアニストの方を頼んで出前のクラシック演奏会に来てくれました。スプリングソナタと呼ばれるベートーヴェンの有名なヴァイオリンソナタほか何曲。ピアノの独奏もありました。
 目の前2メートルぐらいで弾かれるヴァイオリンの音、和子は痰がからむのも忘れて聴きいっていました。

 このマンションは、院長が自分でピアノとフルートを弾く人で、5階の30人ぐらい入る小ホールでは数ヶ月毎に、主に近所の方を対象に音楽会が開かれていて、時々調律しているピアノがあります。
 春になったら、今度はベートーヴェンのクロイッツェル・ソナタの出前がある予定です。

 政治も雇用も、物価も、そして天候も異変続きで、先の見通しは見えないけれど、部屋を暖かくして冬ごもりのつもりで、春の到来を待ちます。和子は髪を染めてもらって、若返った感じです。
 まだ冬はこれからだけど、「冬来たりなば春遠からじ」のメロディーが頭に浮かびます。


和子の近影

今年は天候不順で、屋外での良い写真が撮れませんでした。病気の進行のせいか、車椅子でもまどろむ時間が多くなりました

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