介護日記

 

 2008年10月22日

 昨日の夕方、歩いていたら、雪虫が飛んでいました。ずっと、暖かい日が続いて、9月の気温と言われていたけれど、雪虫が冬の季節の到来を知らせてくれます。
 毎年この時期から春先まで、ニトロ製剤を1日3回に増やしています。私の持病の攣縮型狭心症は、寒さに敏感に反応します。ストレスもアタックの原因になるのだけれど、和子がずっと安定してくれているので、ストレスが原因になることは無さそうです。

 札幌西高の同期会・クラス会・部活の同窓会にたくさん招ばれて、最後は先週土曜日の同窓会総会でした。15年居た西高の教え子達に会えるし、いつもの病院にショートステイを頼めたので、行ってきました。今年の幹司期が授業を教えた学年だったので、受付から「チュー太先生」と笑顔で歓迎されて会場に入りました。各期の標識が立っているテーブルを、2時間の間回って歩きました。私の指定席(恩師席)戻ってくると、隣の席の元同僚が、「後藤さん、何も食べていないでしょう。取っておいたから」と親切でした。

 回って歩くと、顔を知らない元生徒から「チュー太先生、先生には習っていませんけど、ご本読ませて頂きました。感激しましたよ。奥様お元気なんですね」と、こちらが感激したりしました。本が出たのが2002年の2月だから、あれから6年半たつけれど、まだこんな出会いがあります。

 この夏から秋にかけて、生徒達と出会う機会が数えてみれば8回ありました。アルツハイマーのドキュメタリー番組で、同期会なんかで、介護をしている夫に「さりげなく話題にしない」という場面があるけれど、私の場合は全く逆で、みんなが知っていてくれる安心感があります。今年も元生徒のアドレスを聞いて、『介護日記』の読者が10人以上増えました。

 そんな感動的な数ヶ月を過ぎて、ふと思い出したことがあります。
 大学時代の親友で釧路公立大学の学長をしていたA氏が、私の本の出版記念会にきてスピーチをしてくれました。その3日後、彼が釧路で出している公開のメルマガを送ってくれたのです。わざわざ送ってくれたのですが、私と本の事を書いてくれているので、気恥ずかしくてそのままにしてあったのです。私と札幌の高校教員仲間で、本が出た頃は釧路公立大学の教員だったM氏の助言もあり、以下に載せます。


 【良書の紹介】

 スマリバ仲間のみなさん、風の荒又三郎です。

 「どんどん進行します。覚悟してください」と言って、行くたびに「今日は何月何日ですか」と問う専門医と、「病気の進行はケア次第だとも考えてください。いつでもケアのお手伝いをします」というソーシャルワーカー。上記はこれから紹介する本の31ページにあります。

 後藤治著『和子ーアルツハイマー病の妻と生きる』亜璃西社刊2002年2月、がその本です。わたくしは、出版を機縁にして企画されたパーテイに、先週末参加してきました。後藤さんは永く高等学校の理科の教師をしておられました。

 わたくしは、北海道大学で学生の時に彼と出会い、学生時代と、わたくしが大学院に進学し、彼が浦河高校の教師になっていたころまで、つまり青春後期を、彼との頻繁な魂の交流の中で過ごしました。もちろんその後も、同じ時代を生きましたが、当然それぞれ違った人脈の中で生きたわけです。ですから、パーテイに、わたくしの知り合いは多くはありません。でも、不思議な調和がありました。後藤さんの生き様に学び、後藤さんとの付き合いを大事に思う人だけがいたからでしょう。

 若年に発した妻の病をケアしながら、その中に愛を貫き、そこに自分の人生を見出している夫の姿は、心打つものです。今回の本の出版にも、それに寄せた人々の集まりにも、ベースにはもちろん、それがあります。その先にあるものを幾つか、わたくしは述べたいのです。

 後藤さんは、学生時代から、あくまでも個別性にこだわり、そこから一挙に普遍性に飛翔し、昇華する魂の特性を保持していました。抽象性と具体性の対比とはちょっと違って、抽象から出発して納得するのではなく、いろいろあらーな、と雑多な具体性を許容するのではなくて、自分や、身近な周りの人々の生き様の中に、つまり身近な個別性の中に、あくまでその個別を握って離さない中で、個別を通して普遍を見通す努力をする人でした。その彼の特性が、この本の中にも見えます。抽象的な「愛」ではない。自分の妻の個別を見据えることが、日本の社会の医療や福祉の本性を暴き、弾劾し、改善を示唆することに直結していることに読者は納得し、ついで驚かされることでしょう。

 後藤さんは、学生時代にロマン・ロランに凝ったことがあって、しきりにわたくしに、「自分の内に自分の掟を持たない奴はダメだ」という大作家の言葉を紹介し、自ら反芻していました。彼の生き方を見ていると、彼が、妬みだとか嫉みだとかいう感情と最も遠い魂をもって暮らしていたことが判ります。彼が自分の掟に沿って、もちろん現実と刷り合わせながらも、日々の生活を自ら設計し、明るく透明にくらしていることが判ります。そういうなかで生まれる社会への怒りであればこそ、普遍性をもって読者の心を打つのでしょう。

 もうひとつ申し上げます。パーテイで後藤さんは、「教師をしてきて今更の話ですが、病気の妻をケアしてきて、アルツハイマーを発病したものであっても、人間には無限の可能性が秘められているのであって、適切なケアによってその可能性は開くものだと知りました」、と挨拶されました。この言葉に連なる観察が、この本の随所にあります。大江健三郎が知恵遅れの我が子を育んで花開かせた話と同次元の幾多の省察が、この本の中にあります。もともと死すべきものである人間は、静かに死を迎え入れなくてはならないが、死の直前まで、人間はどこかで開花し続けることの出来るものなのであって、尊厳を冒されてはいけないのだ、ということを教えてくれています。お読みになると、わたくしの冒頭の引用が、もっともっと内容をもって展開していることに気付くでしょう。

 現代日本は、まだまだ驚きと感激に満ちています。

介護日記目次   戻る   ホーム   進む