介護日記

 

 2008年9月28日

 和子は1週間のショートステイから、帰宅しました。
 私の寝不足は少し回復したけれど、居るべき人が居ないと、少し寂しいです。そして、いつもは食事作りを含めて介護に没頭しているのに比べて、考える時間ができます。

 和子はいつから視力を失ったのかと考えました。ヒトが見た物は、水晶体を通して眼球の一番奥の網膜に像を結び、それが大脳の中にある神経繊維を通って、大脳後頭葉にある視床下部で認識されると本に書いてあります。一方、和子はいつ言葉を失ったのだろうと考えました。言語野と言われる部分は、側頭葉にあります。

 彼女の大脳神経繊維は殆ど消滅し、その部分は脳脊髄液で満たされています。私と和子の脳のCT写真を比べると、私の大脳の大部分は白いのですが、和子のは真っ黒です。水(脳脊髄液)は黒く写るのです。

 迂闊だったことに気付きました。和子は中途失明者です。美術館に絵を見に行って、絵が好きだった彼女が、絵を見ていないことに気付きました。 そしてその頃は和子はもう言葉を失っていたのです。
 中途失明で、そのことを誰にも訴えられなかった彼女の心境を思うと、今更ながら胸が痛みます。今でも言葉をかけると、目をパッチリ開けて間違いなく反応するから、彼女の心の中に、言葉があることは確かなのです。
 事故であれ病気であれ、中途失明者は家族や友人に、その辛さを訴えられます。それなのに、彼女は誰にもそれを訴えるすべもなく、この何年かを送ってきたのです。
 東京で病気が判って16年、「アルツハイマー病中期症状です。どんどん進みます。ご家族は覚悟をしてください」と医師から言われました。「いったいいつ頃から?」と思いました。私は最後の教職(5校目)が室蘭に単身赴任でした。家で一緒に過ごしていた高校生の娘や中学生の息子の話と、週末に大抵帰宅していた私の体験を併せて考えると、1985年には兆候が現れていました。でも若年性アルツハイマー病などという言葉は、その当時無かったし、和子の一種の異常行動は始まっていたけれど、誰も病気とは思っていませんでした。
 前に書いたけれど、1964年に一緒に生活を始めて(私たちは結婚式をやっていません。市役所に届けただけです)今まで44年、そのうち病気は少なくても23年です。それを考えると呆然とします。
 一所懸命に生きてきたから、神様がいるのならご褒美をもらってもいい、などと気楽に考え、温暖な伊豆の山の中に山荘を建てて、二人でのんびりと過ごそうと考えていたのです。

 いまや若年性アルツハイマー病はメジャーな病気です。テレビにも再三取り上げられ、本にもいっぱい書かれたし、映画も何本かできました。でもこの中途失明のことは誰も書いていません。専門書には書かれているのかも知れないけれど。 
 渡辺謙と樋口可南子が主演した『明日(あした)の記憶』という映画がありました。主人公の渡辺謙が現役のサラリーマンで、クライアントとの約束を忘れ、それが続いて仕事を辞めざるを得なくなる。専業主婦だった樋口可南子が家計の為にアルバイトを始める。最後は樋口可南子が渡辺謙に寄り添って歩きながら「私が居るから大丈夫」というシーンだったと思うけれど、これが観客の感動を集めたようです。
 でもこの映画は、病気の初期の段階しか描いてないし、やがてやってくる地獄を描いていません。介護する家族の毎日が地獄になる経験を私もしたけれど、何よりも本人がどんなに辛い日々だったか、それを介護者が代わってやることができない、ということの酷薄さを私が今頃気付いたのです。
 和子は言葉を失っているけれど、奇跡的に残っている聴覚と、顔の表情を見ると、間違いなく心の中に、表現できない言葉があると私は確信しています。うちにくるヘルパーやナースも皆言います。「和子さん、みんなわかっていますね」と。そしてそれは感覚としてわかっているのではなく、言葉として聞き、言葉として感想なり意見なりを持っているこということです。

 健常者と言われる私たちは、言葉を出す前に一度心の中に言葉をつくり、そこから「言葉を選び」ながら、相手に伝えます。「言葉を選んで話す」という言い方があるように。

 北海道の上空にはシベリア高気圧が張り出しています。西高東低の冬型の気圧配置です。昨夜、西高25期の同期会に、和子を置いて急いで出席しました。タクシーの運転手が、「11月の気温だとラジオで言ってましたよ」と話していました。昨日はコートを着て行きました。今日は少し暖かいのですが。この夏は真夏日もほとんど無く、雨もほとんど降っていません。地球は病んでいると実感するこの頃です。

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