介護日記

 

 2008年9月7日 遅れてやってきた残暑

 前回の『介護日記』は夏至の日付でした。
 あわただしく夏が過ぎ、9月になって残暑が戻ってきています。私は自分でわかるけれど、和子に着せるものの調節に苦労しています。前にも書いた大脳の状態のせいで体温調節機能を無くしているのでしょう。体は温かくても手足は冷たかったりするのです。

 6月の沖縄慰霊の日、7月9日深夜の岐阜市の空襲、7月29日深夜の大垣市空襲。そして8月6日のヒロシマ・9日のナガサキの原爆空襲、そして8月15日の終戦。
 あれから満63年がたったとは信じがたいほど記憶は鮮明です。当時15歳で、アメリカのグラマン戦闘機の機銃掃射を浴びたり、住んでいた岐阜市が丸焼けになり、旧制の工業学校に通っていた大垣市も市街地はほぼ全焼で、校舎は礎石だけしか残っていませんでした。大垣に住んでいた学友は、大垣城のお堀の水から頭だけだして炎に耐えたという話を聞きました。

 ヨーロッパの第2次大戦の犠牲者5000万人、アジアでの15年戦争の犠牲者2000万人、そして日本人の犠牲者300万人。その最後の数年間の「銃後の戦争」を私は少年の体で体験し、目で見てきました。
 毎年、ヒロシマとナガサキの平和祈念式典はテレビを見て、一緒に祈りを捧げていたけれど、6日のNHKの放送は僅か35分、ナガサキは1時間20分でした。甲子園の高校野球が始まっていたとはいえ、総合・教育・衛星放送2波の合計4波も持っているNHKが、ヒロシマ平和祈念式典の実況を僅か30分程度しか放送しませんでした。これが「公共放送NHK」の実態なのかと、改めて思いました。その日の夜のニュース9の時間で、ヒロシマに触れた時間は僅か5分ぐらいでした。
 私は6日と9日、あるいは15日の正午(昭和天皇の玉音放送で、戦争が終わった時)は、高校野球を中断して全員で犠牲者に黙祷をささげてもいいと、前から思っていました。高校球児(戦前は旧制の中学球児)で、若くして戦死した先輩もいるのです。
 歴史が風化すると言われるけれど、高校野球連盟は何も考えないのだろうかと思います。高校球児たちに、ほんの63年前こんなことがあったと教えるいい機会だとさえ思います。

 北京オリンピックが始まる数日前、私は家事をしながらテレビをつけていたのだけれど、日本選手団の結団式で、秋川雅史というテノール歌手が「君が代」の歌詞を、朗々と歌っているのに仰天して、テレビの音を消しました。私は聴いたことがないのだけれど、「千の風になって」という歌を紅白で歌って、オリコンの総合チャート1位になった歌手だとか。
 ちょっと調べてみたら、この歌詞は作者不詳で、Do not stand at mygrave and weep (私の墓の前に立って泣かないでください)という意味でしょうか)。いずれにしても、あの紅白の豪華絢爛の舞台で歌うのは場違いのような気がします。
 結団式の話に戻るけれど、このテノール歌手は「君が代」という言葉の意味を何と考えているのだろうという疑問でした。憲法を変えようという議論はいま沈静化しているけれど、改憲派の人でもまさか、象徴天皇を国家元首に戻そうと思っている人はいないでしょう。

 新しい国歌をつくろうという運動は戦後何度かあったようだけど、国民的議論にならないで終わった歴史があります。「君の代」ではなくて「国民の代」だということは、私とほぼ同年代の天皇自身が意識していることだろうと思います。昭和天皇が自身の戦争責任をあいまいにしたまま亡くなったあと、今の天皇は昭和天皇のやりのこしたことを、いくらか意識している感じがします。最後の戦中派ですから。2005年に天皇・皇后ご夫妻で、日米激戦と民間の日本人が数多く死んだサイパン島に慰霊の旅をしたり、園遊会で東京都教育委員になった将棋名人だったかが、「学校行事に日の丸・君が代を徹底させるよう努力します」と言ったのに、「あまり無理をしないようにね」と軽くたしなめたこともありました。
 私と同年代だから私と同じ経験をしたとも思わないけれど、今の世を、「君の世」ではなく、「国民の世」だと思っているのは、誰よりも天皇自身だろうと私は思っています。秋川雅史というテノール歌手は、何の疑問も持たずに「君が代」を歌うことをひきうけたのだろうかと、不思議に思います。
 
 今年はは札幌西高の同窓会が多い夏でした。私が最初に担任した1年から3年までのクラス会に25人、そのあとで担任した学年の卒業30周年の学年同窓会には100名近い生徒達が集まりました。担任はしなかったけれど、2年3年で物理を教えた学年クラス会に、私ひとりゲストとして招かれ、懐かしい夜を過ごしました。その他に数人の同期会、図書部の同窓会やら、全部で6回出ました。幹事が私のホームページを事前に参加者に知らせておいてくれたりして、応援団がまた増えてきたという実感があります。
 和子がショートステイの入院を利用できたときはマチナカで、それが利用出来ないときは家の近くでやってもらいました。2時間ぐらいしたら痰の吸引に戻る必用があり、何人か同行して和子の健康そうな寝顔を見てもらいました。

 教え子達の年齢は54歳から48歳ぐらいまで、多くの人がインターネットをやる時代になり、『介護日記』を送る為のアドレス帳の人数が増えました。和子は病気は進んでいるのだろうけれど、食事は私と同じ物をミキサーにかけて裏ごしして入れています。時間と手間はかかるけれど、病人らしくない顔と変化に富んだ表情を見ると、せめて家では人間の食べるものをと、心がけています。胃瘻の注入穴が小さいので、裏ごしをきちんとしないと詰まってしまい、おおごとになります。胃瘻カテーテルの逆流防止弁は胃の中にあり、これが詰まると病院で医者が内視鏡を見ながら取り替えなければならないのです。

 異常気象も、ただ事ではないと思いながら過ごしています。表題の「遅れてやってきた残暑」もそうですが。

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