介護日記

 

 2008年6月21日 夏至

 6月初め、和子は今年2回目の療養型病院に入院をしました。先月、教え子の心臓血管の医師に受診したとき、「先生、疲れていますねえ」と言われたのですが、翌日西高の同級生だった女医Mから、「疲れているんなら休まなくては」と電話があり、いつもの病院に電話して、ちょうど6月初めから空くベッドを確保してもらいました。10日間ひたすら眠りました。若い頃から共働きで年中寝不足で乗り切ってきたのですが、それが顔に出る年齢になったのかも知れません。
 約10日間、私の介護休暇でした。ここを経営している医療法人の理事長をしている教え子Kは、介護保険型・医療保険型あわせて140床を減らさないで頑張っています。全国の療養型ベッド数25万床を12万床に減らすという厚生労働省の方針は変わっていないのだから、定額の医療費でベッドを減らさないでやっている病院の経営はたいへんのようです。

 14日に起きた岩手宮城内陸地震の宮城県側の栗原市若柳町は、和子が4歳から18歳の高校卒まで育った町です。岩手・宮城・秋田の3県境の栗駒山という火山から長い年月堆積したした火山灰の土壌が、マグニチュード7.2という国内観測史上最大規模の直下型地震に襲われ、未曾有の大災害を引き起こしました。実家のある若柳町は、この栗駒山を水源とする一迫(はざま)川が二迫川・三迫川と合流して稲作地帯に豊富な水を供給して広い水田地帯になり、町は江戸時代から米の集散地として栄えた所です。この川は北上川に合流するので、昔は舟運の物流拠点となっていたそうです。
 町の中心部をゆったり流れる迫川の川べりに立つと、遠く栗駒山の山並みが見えます。今回はその山岳地帯で、震源の深度が僅か10キロメートルという地点でマグニチュード7.2です。私は和子の里帰りで、和子を連れてこの山に登っているけれど、尾根コースの頂上近くまで自動車道路が延びています。駐車場のある「いわかがみ平」から山道を登るのですが、そういえば火山灰地の中の、歩きやすい歩道が頂上近くまで続いていました。そして今度大きな被害を受けた「駒ノ湯」温泉は、沢コースの登山基地です。

 和子が14年間も過ごしたふるさとの町の大きな事件を伝えるすべも無いのがもどかしいのですが、どうしようもありません。朝ヘルパーがきて、「和子さん、おはようございます」と言うと、それなりに反応して、大きな目をパッチリと開けて、声のした方を見るので、今にも返事をしそうですが、視覚を完全に無くしているので、望めないことです。音楽だけは聴きわけているようなのが、せめてものことですが。

 先週の日曜日、この建物の中でアマチュアだけのコンサートがありました。私は院長の伴奏で、ベートーヴェンの歌曲「われ、御身を愛す」と、和子の卒業演奏の歌曲集「白鳥の歌」の中から、セレナーデをドイツ語で歌いました。和子がどう感じたかはわからないのですが。

 以下は、少し前の日本テレビ系のドキュメンタリー番組からです。タイトルは『兵士達が記録した南京大虐殺』

「捕虜兵約3000を揚子江岸に引率、これを射殺」
「捕虜残部1万数千を銃殺」

 これは71年前の1937年、日中戦争に従軍した兵士達が書いた陣中日記の一部です。71年前の手帳がよく残っていたこと!数少ない生存者を捜し出し、あるいは遺族を訪ね歩き、記録を取ったのは57歳の一民間人です。
 「南京虐殺などはなかった」などという教科書検定官や一部学者の意見など、古い手帳の現物をテレビで見ると、ふっ飛んでしまいます。
 「勝ってくるぞと勇ましく・・・」と、日の丸と歓呼の声に送られて南京上陸作戦に出征した近所のお兄さんのこと、彼が一ヶ月もしないうちに遺骨になって戻ってきたことなど、当時7歳(小学2年生)だった私は忘れません。彼には3歳ぐらいの可愛らしいお嬢さんがいました。

 ふと、四川大地震に、救援物資を運ぶために、民間機の何分の一の積載量しかない自衛隊の輸送機を派遣しようとして、中国側から断られた事件を思い出しました。「他人の足を踏んでも痛くないが、踏まれた方は痛みを忘れない」という古い諺を思い出しました。四川省の入り口に日本軍が猛爆撃を加えた重慶市があります。防衛省トップはかくも鈍感になったのかと、思ったものでした。恥ずかしくないのだろうか。

 前回書いた後期高齢者医療制度のこと、あっちを直す、ここを直すと舛添厚労相は言うけれど、一回目・二回目は4月と6月の年金から、天引きされたままです。そして昨日届いた文書は、長寿医療制度(後期高齢者・・・)と名称だけ掏摸(すり)替わっています。常用漢字には無くても、パソコンでは掏摸という言葉が出てきます。

 和子は元気です。でも病気は進んでいて、抵抗力が無くなっています。先週の土曜日(地震の日です)、朝ヘルパーがきて、清拭(せいしき)をやっていたら、背中に大きな水疱ができていました。前の晩は無かったのです。月曜日に訪問皮膚科に連絡し、火曜日にきてくれました。3年前の薬疹での入院で大量のステロイドを投与し、3ヶ月後の退院以来、少しずつ減らしていたのですが、またステロイドの増量ということになりました。膠原病の一種の「Iga水疱症」の疑い、ということです。本人は足以外は痛覚も痒覚もないので、普通の顔をしていますが、自分の体に起きていることを感じないほど病気が進んだということです。
 結婚したのが44年前、そして若年性アルツハイマー病の推定発症が1985年頃だから、もう23年です。結婚生活の半分が闘病期間だったと改めて思っています。

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