介護日記

 

 2007年9月1日 「8月、“祈り”の月」を過ぎて

 今日の札幌は抜けるような青空でした。
 車椅子を押して、道立近代美術館に行きました。会期末に近い休日、ダリ展は、人であふれていました。私たちは先日知人と一緒に夜間開館の夕方行ったので、静かに見ることができました。「良かったですか」と人に聞かれると、「うーん」とうなってしまいます。ダリの絵は今まで何回か見たことがあるけれど、こんな大規模展は初めてです。彼がピカソが「ゲルニカ」で描いた、スペインのバスク地方出身だということは知りませんでした。彼の「奇っ怪な」な絵が、そのバスク出身ということと関係があるのか、わかりません。

 さて今日は、人であふれているダリ展とはうって変わって、人も少ない常設展です。

 この美術館はガラス工芸のコレクションを1000点以上所蔵していて、今回のはそのうち150点ほど。アール・ヌーヴォーのエミール・ガレやドームなど、有名な作品から現代の日本人工芸家のものまで、きれいなものがたくさんありました。
 印象に残ったのはルイ・コムフォート・ティファニーという作家の、「ランプ・きばなふじ」というランプで、あのオードリー・へップバーンの名を思い出す、ニューヨークの宝飾店ティファニーの創業者の長男と解説にありました。いろいろな色の小さいガラス片を貼り合わせたランプシェードの下に白熱電球が数個あって、ガラスのシェードから漏れる光がきれいでした。黄色い色のフジの花があるのかどうか知らないけれど。

 静かな空間の中で1時間、往復ゆっくり歩いて30分、帰り道は夕日がきれいで、素敵なひとときでした。和子は不思議なことに、この往復の間中、痰がらみが全くなく、帰宅した途端、待っていたように痰を出します。一応携帯用手押しポンプの吸引機は持って行くのだけれど、全く使いません。ダリ展の時もそうだったし、作品は見えなくても和子だけが感じる静かでいちばん落ち着く空間なのでしょう。

 昨日の朝日新聞の天声人語の書き出しは、「追悼の夏が去る」でした。私も数日前から書き始めた『介護日記』のサブタイトルに、、「8月、”祈り”の月」と書き始めていました。

 何度も書いているけれど、終戦時15歳だった私には、やはりこの月は特別の月です。

 1945年7月9日午後11時過ぎ、私が住んでいた岐阜市がB29の大編隊の焼夷弾攻撃にあいました。人口17万の地方都市で軍需工場などは市内に無く、そこに焼夷弾の雨が降ったのです。我が家は岐阜市の最南端にあり、母と妹を連れて真っ暗なたんぼ道を、ひたすら南方の木曽川堤防まで避難しました。時々後を振り返ると、岐阜の街は紅蓮の炎に包まれていました。火消し要員を残せという命令で、次兄と姉は残りました。
 夜が明けてから、元のあぜ道を自宅の方に戻りました。家は焼けて無いだろうと覚悟していましたが、何より残った次兄と姉が無事か心配でした。家は奇跡的に残っていました。姉が通っていた女学校の広い校庭で、燃える物が無くなって、炎は止まったようでした。女学校の校舎も含めて、見渡す限り焼け野原でした。姉も兄も無事でした。

 「岐阜の街が、姿を消した!」と岐阜大空襲の記録の見出しにあります。
 人口17万の地方都市が、本当に姿を消したのです。後の記録ですが、死者900人、負傷者1200人、被災人口10万人、市街地の60%消失、とあります。
 焼け跡を歩いたのは何日もたってからだけど、鼻をつく異臭は残っていました。片づけられた死体の死臭だったと、あとから聞かされました。

 7月29日、私が列車で通っていた工業学校のある大垣市が空襲にあいました。私たちは学徒動員で、炎天下トロッコ押しをやっていたので、戦争が終わってから見たのですが、学校もコンクリートの土台だけで跡形もありせんでした。街の中に大垣城がありました。1535年創建、関ヶ原の合戦では石田三成側の本陣があったという城です。その城が直撃を食らって炎上したので、「お堀の水に首だけ出して火をしのいだ」と、級友の話でした。

 トロッコ押しは輸送の大動脈である東海道線の迂回路を造っていたので、これは空から見れば一目瞭然、毎日グラマン戦闘機の急降下攻撃で、本当に命がけでした。一緒に働いていた顔見知りの補充兵が何人か撃ち殺されました。グラマンは兵士の顔が見えるほど近くまで降りてきて、機銃掃射のねらい撃ちでした。

 8月6日のヒロシマ原爆。新聞やラジオでは新型爆弾としかわからなかったけれど、私が自宅の岐阜に帰る列車に、ヒロシマから避難してくる人の様子から、ただ事ではないと思いました。
 そして8月9日のナガサキ原爆、15日の天皇の玉音放送で長かった戦争の時代は終わりました。15年戦争とか、アジア太平洋戦争と言われるけれど、私が15歳だったのだから、私はその15年戦争の時代をまるまる生きてきたことになります。

 以下は、広島にある中国新聞の、後の記録です。、

【ウラン爆弾。午前8時15分。広島市大手町1丁目島病院上空570m前後。せん光。直径100m。表面温度9千〜1万度の大火球。ごう音。大火球。大量の放射能。ごう音。爆風。大火災。原子雲1万mをこえる。黒い雨。広島市壊滅。】

 ヒロシマは一発のウラン爆弾で死者十数万人、ナガサキは爆発力同規模のプルトニューム爆弾だったけれど、街の中心部から数キロ離れた浦上地区で、しかも山と坂の街なので、浦上上空500mで炸裂したという爆弾による直接の死者がヒロシマより少なかった、と言われています。
 ナガサキにも何度か行ったけれど、戦後新築された浦上天主堂の横の崖に、原爆で崩れ落ち、爆風で飛ばされた前の天主堂の一部が突き刺さったままになっています。おそらく原爆の遺構として残されているのでしょう。

 NHKはヒロシマとナガサキの平和記念式典を1時間ほど実況中継したけれど、昼間働いている人がテレビを見ることができる時間ではないし、たぶんNHKが夜のゴールデンタイムのニュースと位置づけている「ニュース9」の1時間枠の中で、平和記念式典に割いたのは両日とも8分ぐらいです。

 前にも書いたけれど、8月6日と9日、それに15日ぐらいは特別編成にして、犠牲者を悼み平和を誓う番組にどうしてできないのか。中越沖地震の時は公共放送らしく、娯楽番組をカットして特別編成にしたのに、原爆忌と終戦記念日はどうして民放と変わらぬ娯楽番組ばかり垂れ流すのか。これで公共放送の名のもとに受信料を徴収できるのか、幹部の神経を疑います。

 【柏崎刈羽原発中枢部「変形」】のニュースは、日本の原子力行政にとって、容易ならざる事態を突きつけたのだと思います。東京電力が、原発銀座と言われる北陸・中越地方を中心に、全電力の40%を原発でまかなっていることなど、狂気の沙汰だと思います。
 それでも、この史上最高と言われた暑い時期を、原発なしで何とか乗り切ったのだから、苦労した人には怒られそうだけど、やればできるんじゃないかと思います。

 日本の原発を作ってきた原子力工学者たちは、日本列島が4枚のプレートがせめぎ合う危険な所にあることに無知でありすぎたのではないか。阪神・淡路大震災以来、日本列島の断層地図は、かなり判ってきた筈です。その断層の上に原発を作っておいて、今更「想定外」とは何事だろうと思います。 学問が進んで、危険であることが判ってきたら、総点検をするのが原子力保安院の仕事でしょう。点検の結果、あぶない所に原発があった、ということが判ったら、直ぐ稼働停止をすることが保安院の仕事でしょう。
 いろいろな意味で、1億2千万人が住む日本列島は、セーフティーネットが欠けたままだという気がしてなりません。防災の日に人を集めて訓練するだけでいいのか、東京に「想定内の地震」が来たら、死者十数万人という怖ろしい予測が出ています。原発の話は別にしてです。

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