介護日記

 

 2007年6月27日 「沖縄慰霊の日」を過ぎて

 和子の病気は、少しずつ進んでいます。左足の硬直が進行して、足の親指がベッドや車椅子の特定の所にさわり、そこに体圧がかかるので、褥そうができました。皮膚科医の往診を頼み、治療に専念しています。ただ足の親指だけなので、気をつければ車椅子散歩や、車に乗せて外出することもできます。週1回リハビリに来てくれる理学療法士の話では、リハビリで足を伸ばしてもあまり効果はないだろうという話です。寝たきりで当然というレベルなので、昼間は服を着せて車椅子散歩や車に乗せて動き回れるだけ良しとすべきなのかも知れません。

 私の目は白内障手術後半年たって安定し、先日無事運転免許の更新ができました。3年前の更新時は、ぎりぎりで通ったのですが、その後白内障も進み、手術をしなければ 今年の更新は無理だったでしょう。地下鉄の沿線に住んでいるのだけど、和子を乗せて病院や音楽会に行くためには、やはり車は必需品です。でも夕方から夜にかけては運転をしないようにしています。

 6月23日は「沖縄慰霊の日」でした。
 1945年6月6日、沖縄海軍部隊司令官の大田少将が海軍次官宛に有名な打電を残して自決しています。

  【沖縄県民斯く戦へり。
   県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを】

 6月22日に沖縄陸軍司令官・牛島満中将が摩文仁の丘で自決し、これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表しています。

 しかし、指揮系統を無くした沖縄全土にそれが伝わる筈もなく、8月15日の終戦の日まで、(あるいはそのあともしばらくは) 沖縄全土で戦闘行為は続き、たくさんの兵士と民間人と、そしてアメリカ軍人の犠牲が出ました。この2ヶ月の間の犠牲者の数は判らないままです。そして沖縄戦の日本人死者約20万人の半数が民間人です。

 15年後の1960年の同じ日には、新しい日米安保条約が発効しています。日本は引き続き日本全土に米軍基地を提供することを約束し、6月23日に批准書が交換されて新安保条約の効力が発生しています。
 1972年、沖縄は日本に返還されたけれど、在日米軍基地の90%が沖縄に置かれ、沖縄県民のみが多大な痛苦を受けています。

 折しも来年度使用の高校教科書から、「軍の強制に依る」集団自決、という文言の括弧内が、検定に依って削られました。当時15歳だった私でも記憶にあるけれど、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓だったかの言葉は62年たった今でも忘れません。

 今度の教科書検定に、沖縄県議会は全会一致で抗議声明を出しています。

 安倍総理は慰霊の日の記念式典に出席だけして、とんぼ帰りしたようだけれど、保守から革新まで県議会が全会一致で抗議声明を出すという事態は、実際に日本軍による強制自決を強いられた事実が数知れずあるからです。

 【沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを】に対する戦後62年目の政府の「高配」とはこういうことだったのかと、思わざるを得ません。

 ヤンキーこと義家氏が教育再生会議で、世の中のことが全部判ったような態度で話しているのをテレビで見て危うさを感じていたけれど、今度は自民党から参院選比例区で立候補するそうです。彼は教師として、例えば沖縄戦のことを学んだことがあるのか・・。

 今日のニュースです。アメリカ下院外交委員会で従軍慰安婦問題が39対2で日本に謝罪を求める議決がされたようです。数年前、日本で開かれた女性法廷で論議されたことが、とうとうアメリカ議会まで動かしています。

 年金も医療も残留孤児も、ドミニカ棄民も、みな日本が戦後処理を何もしないで繁栄への道を突っ走ってきたツケが回ってきたとしか思えません。

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